ここで暮らす人々は、生活も仕事も大雑把なように見える。しかし自信に満ちている。何事に関しても、押さえるところは押さえているように思える。
 自動車のタイヤがある。日本ではタイヤがよく売れるらしい。タイヤにも、人それぞれのこだわりがでるからだ。色は黒い。数も四つ。違うのは大きさ、厚み、原料、環境性能、制動能力、そして溝のパターン。
 細かいところまで目が行き届き、完璧なものをつくろうとする。妥協のないものを手にしたいと考える。そのための目が育っている。卓越した能力。教養の高さ。
 しかし必要ない領域まで及んでしまっているのも確かだ。環境性能ははずせないが、タイヤに求められているのは制動能力。そこを押さえていればいい。付加価値に対する感覚が鋭いあまり、高品質で高価なものをつくる。しかし細部に至る気遣いを気付いてもらうには、世界は大らかだ。

 昼は目の前でハンバーグを焼いているカウンター席に座り、ホットサンドをほおばる。アイスクリームサーバでビーフをたっぷりすくって鉄板の上に落とす。それを鉄のこてで押さえつける。油から上げたフライドポテトを鉄板の隅にあける。白い皿にミディアムに焼けたパティと温めたバンズ、ポテトを豪快に載せ、ケチャップの大瓶と一緒にテーブルをすべらせる。手際のよさとその動きの迷いのなさに感動を覚える。
 隣の席の男性はチーズバーガーを食べておきながら、レタスとトマトは残していた。足りない分はバイタミン・ショップで補うことになるのだろう。文明の力が生命の自発的エネルギーを支配しつつある。科学への信頼。信心に近い。

造形屋@マンハッタン
 人生をかけて守るべきものは何か。日本で生活する多くの人はこう問われると真剣に考え出すのではないか。もちろんいい加減に答えるわけにはいかない大切なことだという気持ちからだろうと思うが、それだけではなく、ただ単にはっきりしないからでもある。

 ゼロの概念はインドで生まれたという。何もないということを、何もない状況であるということに規定し、表現する、大きな発見であった。

 グラウンド・ゼロと呼ばれる土地がある。周囲に張り巡らされた金網の向こうに、タワーがそびえているはずだった。在りし日の姿は知らない。しかしそこがすっかり開けているのは周りの状況からして不自然なことだった。目の前にゼロでないはずの状況が存在する。ゼロでないはずだから、取り戻さなくてはならない。何かで満たさなければならない。そう考えてしまうことが、理解できるような気がする。
 何度も映像で見てきた現場を訪れると、繰り返し目にすることでどこか仮想化していた光景が、現実のものとして迫ってくる緊張感がある。この場所に立つことがあったら、考えを変えてくれる人たちがいるかもしれない。一瞬そう思えた。しかし現実にはそうはいかないだろう。ただ単純に憤るのだ。普段はくだらないと白い目を向けるだろうに、目を血ばらせてケンカを始める。問題の根源はそこにないことは誰にも分かっているはずなのに。

 信じるものがあるというのは強い。人生を通して守っていかなくてはならないのは恋人であり、子どもであり、家族である。この模範回答のためならあらゆることが正当化される。信じるものがない人生は、心もとない。

造形屋@マンハッタン 「メモの束 vol.6」掲載