強い風と雨が吹き荒れた日の翌日、西の空に日が沈みかけている頃、東に連なる山の峰の背後から、丸い月が顔を覗かせた。まるで日が昇るかのように、鈍い光を放ちながら月が姿を現した。西に太陽、東に月。月は太陽の光を受けて輝く。その関係のただ中に、自分が置かれている感覚が新鮮だった。
 都会を離れ自然が身近にある生活を送るようになってからはあまり出向かなくなったが、以前は時折、山を歩きに出かけたものだった。時期と場所にもよるが、一人ただ黙々と歩いている。実は正直言って辛い。道は厳しく励ましてくれる友もおらず、ただひたすらに黙々と、歩を進めるのみ。疲れないわけもないのに思わず休憩もとらず、どんどん苦しくなっていく。そして思う。なぜ来てしまったのだろうかと。
 山の頂を制したいわけではない。サディスティックなわけでもない。森の香ばしく甘い空気を呼吸しながら、木々の間をさざめく風の流れを感じながら、汗をかき、体の隅々に行き渡るのが感じられる冷たい清水を口に含み、歩き、歩く。荷物の重さを背中に感じる。歩き続け疲労を感じる。時の流れと同調する。自然と一体化していくように錯覚する。そのリズムが、思考を研ぎ澄ます。
 起きたい時刻を設定し、食べたいときに食べたいものを口にし、行きたいところへ行き、会いたい人と会って、話したいことを話し、欲しい情報をリサーチし、倦怠を感じたら床につく。世間の動きに歩調をあわせながらも、自己が中心に存在する世界を形成する毎日。大きな流れの中で、無理なく存在する緊張感と気楽さを体験することは、ヒトにとって大切なことだと思っている。
 太陽と月に挟まれた。体が受けているだろう引力の関係を想像してみる。いまその只中にいる光線の反射を観察する。自分の存在が見えてくる、、、
 「Central ・・・」 中心市街地へ誘う道路標識には、英語(ローマ字)標記としてこのように書かれていることが多い。この音がなぜか気に入っている。どんなに小さく静かな土地であっても、中心となる地区がある。誰もが知っている大都市ほど、「Central ・・・」とは表現されない。「セントラル・・・」 口に出してみると、笑顔を誘う。
 海辺で腰をおろし、白くさざ波立つ太平洋に視線を投げる。ウラニホンに住んでいる頃も、よく海辺へ出かけた。その日本海とは雰囲気が異なるなと、ぼんやりと思う。遠くに横たわる水平線は穏やかで、すぐ際まで迫ってから白波立つ海の向こうに手を伸ばせば、今この状況から抜け出し、違う何かが待つ新天地へ行き着くことができるような、そんな匂いがする。
 この地球が丸いと考えることができた先人は、毎日いったい何を見ていたのだろう。丸い地球が月を従え自転しながら、より大きな惑星の周回を巡る。中心はここにはないと気づいたその発見こそが、革命的だったように思える。もし坂本竜馬がウラニホンに育っていたら、文明開化は訪れただろうか。竜馬の「海」は、太平洋だった。
 人の存在するところに、世界の中心が意識される。この地球上には、六十億もの世界の中心がひしめき合う。雨の上がった朝望むどこまでも蒼い海には、新しい世界がきらきらとさざ波だっているように見える。世界の中心など実は存在しないのだ、と世界の中心をもたない自分を想像してみる、、、 モハヤボクハニンゲンジャナイ。

「メモの束 vol.8」掲載