砂利を踏みしめ森に分け入り、つり橋を渡って泉の水際で手を差し伸べる。木々の放つ香りに包まれながら指先に触れる冷んやりとしたせせらぎの感触が心地いい。青々とした牧草地に出て、大の字になって空を仰ぐ。鼻をつく牧草の香りが緊張した神経を解きほぐしてくれる。深呼吸するとすがすがしい空気が身体の隅々まで染み渡り、日常の濁った大気でくすんだ器官を潤してくれるようだ、、、。真の闇の中でのこと。
 光を失う体験は、すべてがバーチャルだった。赤坂のビルの中につくられた擬似環境は、あらゆる現象が包み隠され、感じられるのは視覚以外。それらを頼りにその場に広がる空間を”イメージ”する。そのとき、空間は想像の中で重力から解放され、想像力の許す限り果てしなく展開する。
 映画「マトリックス」ではないが、目の前の現実と思える世界は虚構かもしれない。光を反射するものを視覚が捕らえ、その信号は頭で解析される。こうして世界を”イメージ”する。思い描いた姿と眼前の現象とが一致しているように思っているのは自分自身でしかあり得ない。本当に共有しているかどうか、確認する手だてはない。
 光があることで闇は生まれ、光を失うと闇も失せる。想像の世界はいずれにも存在する。ものの道理をもとに現象を理解しようとする世界から解放されたバーチャルな空間が、新境地を生み出すかもしれない。

 ※ ダイアログ・イン・ザ・ダーク (Click!) 

「メモの束 vol.9」掲載
 ものをつくる人なら誰しも思っていることかもしれない。「これ、ぼくがつくったんです」というとき、戸惑う。自分が考え、自分の手でつくりあげたものであれば当然のことだが、そうでなかった場合、困る。
 家を建てる。住宅メーカーに赴き、家のタイプを選び、予算と相談しながらオプションを設定する。半年後、建ちあがっている。友人を集めてホームパーティーをもつ。そして言う。「この家、ぼくが建てたんです」
 近頃は、家を建てる場合細かいところまで相談して決められるようになっているようだが、実際に手を動かしているわけではない。車を買ったとき、インテリアやオプションをいかにアレンジしようとも、「買った」という。
 ぼくは仕事場を建てた。しかしストレートにそうとは言いにくい。もちろん、時間が許すのであれば自分の手で建てることも可能だろう。でも人に任せた。設計し、業者を選定し、相談しながら進めた。職人さんの熟練した技術と知恵に敬意を表し、建ててもらった。だから、正確には建てたとは言えない。
 自分が主催者となって物事を動かしたとき、それはそれを取り仕切った人のものとなる。人を動かすということは大変なことで、そういうことがあってもいい。でもぼくは自分の仕事については、「自分がつくりました」と、堂々といえるようでありたいと願うのである。
 友人がポストに投函した速達。受け取った人が、親切に教えてくれた。友人が投函したポストに、誰かがいたずらしたらしいと。
 「何者かによってたばこの吸い殻と液体が入れられて、汚れてしまったけれどそのまま送るのでご了承ください」こう一言添えて、袋に入って届いたという。郵便局の方がていねいに拭いてくれた様子。ひどいことがあるものだ。
 郵便事業解体が騒がれているが、そのことは置いといて、郵便局が日本中に設置され、集配がくまなく行われているということ。すばらしいことだなと思う。今では電話、ファックス、電子メールとさまざまな手段があって気軽にコミュニケーションをとることができる。そうであっても人の手から人の手へと渡って相手に届く、郵便という形態は魅力的だ。送るものも、声や文字だけでなく、思いも温もりも時間をかけて包むことができる。
 そんなたくさんの思いも詰まっているかもしれないポストにいたずらをする。むしゃくしゃしていて、ほんの出来心だったのだろう(とせめて思いたいのだ)が、その一瞬の行為がいったいどれだけの人々に悲しみや憤りを与えてしまうことになるのか、想像できなかったのだろうか。
 人の立場になってどんな気持ちになるか考えてみる。誰しも幼い頃からよく聞かされたこと。身体ばかり大きくなっても、なかなかできないことのひとつかもしれない。これができれば、毎日起こる、悲しい出来事が、少なくなるかもしれない。
 椅子がひとつ欲しいんだよな、と言ってみる。どんな椅子があったらうれしいか、想像してみる。どの部屋に置くか。どの場所に置くか。どんなときに座るか。座っていないときはどんな様子か。一日の移り変わりを、一週間の流れを、季節による生活の変化を思い描いてみる。なんとなくイメージがわいてくる。こんな椅子があったらいいな。
 形を決めるという作業は、時にしんどいものだ。ひらめきでできてしまうことなんて、そうない。というかそんな芸当ができる天才じゃない。こんな姿してたらかっこいいかな、とたくさんスケッチを重ねていく。そのとき頭の中には使う人のこと、置かれる部屋のこと、使われ方のこと、さまざまな条件が交錯している。うまくまとまりそうなときは楽しくて次から次へと思いつく。毎回そうだと最高だけど。
 さまざまな条件。そこにはもちろん材料の性質、コスト計算、十分な強度をもつ構造なんかも含まれる。だからパズルをあわせていくのと似ているかもしれない。すべてがバランスよく組み合わさったとき、ものの形が見えてくる。そのときの快感。もしかするとこの瞬間が最も楽しいかもしれない。
 ということで、たとえばの椅子。これも、こんな椅子をつくろうということもあるにせよ、たいていの場合は空間とのかかわりから導き出す。こんなときに、こんなところに、こんな椅子があったらうれしいな、そんな夢から、かたちづくられる。
 28日、月を眺めた。台風が近づいており、夜は雲が厚く月は望めないだろうと予報されていたが、夜外に出てみると、川の流れのように絶え間なく流れる雲の合間から、煌々と輝く月が見え隠れしていた。月ってこんなに明るかったっけ。
 ぼくの寝床からは月が見える。季節や時間帯によって見えたり見えなかったりするのが不思議だなと思う。きれいな状況に出会ったときには、ちょっと得した気持ちになる。もし今自由研究をしなきゃならなくなったら、月の観察をするというのも面白いかもしれない。
 中秋の月が一年の中でも最も観賞に値すると認め、暦として刻んだ人たちはすごいなと思う。そしてその月を眺めるために場を設け、集い、たしなむ人々の所作が粋だなと思う。決まった時間に決めた番組をみるためにテレビの前に席を取り、笑って過ごすのもよし。でも一歩外に踏み出すと、人の手業をはるかに凌ぐ神々しい世界が繰り広げられているときもある。そんな瞬間に出会えたときの小さな感動は、何ものにも代えがたい。