今たたいているパソコンのキーボードは、プラスチック。マウスも当然、プラスチック。デスクスタンドのスイッチもプラスチック。鍋の取っ手もプラスチック。携帯電話もプラスチック。実は毎日プラスチックしか触っていないんじゃないかと思えるくらい、たくさんのものがプラスチックでできている。
造形が自由で、軽くて丈夫で、成分を工夫すれば熱に強くなったり柔らかくなったり、電気を溜めることだってできる。発色もきれい。感触も自在。とにかく便利な素材だと思う。樹脂といえばもともと琥珀や漆といった天然由来の素材を指したが、今では合成樹脂を連想するくらい浸透して、暮らしを支えている。
木のテーブルがある。大木から切り出された、立派な板。どっしりと構えていて、大黒柱じゃないが、家のよりどころとなるような、たくましい存在感を漂わす。そんなテーブルもつやを保つために、扱いを楽にするために、長持ちするように、ほとんどのものがプラスチックのコーディングが施されている。だから触っているのは、大木じゃなくてプラスチック。木の温もりを感じる、なんてことはできない。
素材にはそれぞれ特有の表情があって、心に響いてくる。鉄には鉄の、ガラスにはガラスのかもし出す雰囲気がある。木材にもたくましくてやさしい表情があって、それに包まれたいと多くの人が思う。でもよく目にしている木材のようなものは、印刷だったりする。雰囲気だけなら申し分なく再現されているから、役目は果たしているかもしれない。でもそれは、本質じゃない。
素材の感触。見た目以上に大切な、リアルな刺激を忘れはしないかと、不安になることがある。世の中は、バーチャルじゃない。
以前弟が、炊飯器の使い方が分からないといっていた。この話を聞いただけだと、ご飯も炊けない甘ったれのように思われそうなものだが、実は違う。彼はよくご飯を炊いてくれる。ただうちには、電気炊飯器がない。だから使ったことがない。だから納得。
うちでは圧力鍋でご飯を炊いている。近頃は土鍋を使うこともある。高級な電気炊飯器で炊かれたご飯を食べたことがあまりないので、どれだけおいしく炊けるのか知らないが、火にかけて炊いたご飯は、とにかくおいしい。しかも手間がかかるかと思えば、そうでもない。夕食の支度で台所に立つ時間があれば、その中で炊き上がってしまう。火のそばを離れるようなことがなければ、失敗もまずない。
そんな自分も、一人で暮らしているとき、炊飯器はもっていなかった。炊飯器を使った驚きの調理法をちらほら耳にすることはあるものの、基本的にご飯を炊くことしかできない炊飯器が、狭い台所にはちょっと邪魔に感じた。ただそれだけのこと。それでもほぼ毎日鍋でご飯を炊いて、食べていた。聞き方によっては、ぜいたく。味わいもまた、ちょっとぜいたく。
暮らし方は十人十色。必要になる日用品もまた、人それぞれ。炊飯器でケーキが焼けても、うちにはまだなくていい。
今日が祝日だということに昨日気づき、そのせいか朝はなんとなく寝坊した。それでも相当早い時刻から向かいの土地で棟上げが始まり、にぎやかな様子に引きずり出される。やはり冬の朝の冷気は、目覚めの時分から気合を必要とする。年取ったのかなぁ などと思ってみるも、子どもの頃からそれは変わらない。意味のないいい訳のひとつ。
仕事場に、薪ストーブを置こうと考えている。春先には、薪ストーブを買っても薪になる廃材が出なかったりして。すなわち、仕事がなかったりして、なんて冗談をいっていたものだが、幸いなことにいくつか仕事をいただくことができ、じゃあそろそろ、という気持ちになった。ただ、いまだ決心つかず、今は灯油を燃やしている。もしかすると、このまま春を迎えてしまうかもしれない。
そんなところで、今日は薪をつくった。天気もよかったし、向かいの家が目を見張るスピードで組み上げられていくのを見ながら薪をつくるのは、仕事をするよりも気持ちがよかった。仕事のつもりで材に向かうと、この部分はまだ使い道がある、もったいない、などと考えて全然薪はつくれない。同じ作業でも、気持ちが違うとこんなに楽なものかと、新鮮に思う。
おかげで棚ひとつ分の薪が用意できた。ストーブを買う頃には、きっとほどよく乾いている。来シーズンもまた薪をつくれるよう、最善の仕事をしていこう。
パーソナルコンピュータがうちにきたのは、学生のときだった。それまでは、ワープロにずいぶんお世話になった。冊子をつくるようなときは、出力した文章を切り貼りして、印刷機にかける。文字列は行儀よくなったものの、行程のひとつひとつが手作業の連続で、アバウトな仕上がりになっていたものだ。
うちにきたのはA社のパソコン。初めての買い物だから、特にこだわりもなく迎え入れたのではないかと思う。その頃は何でもできるようでいて何に使うのかよくわからず、取り立てて必要ともしていなかった。だからこんなものが世の中に広く受け入れられるとは露とも思わなかった。インターネットにつながったときも、ここまで普及するとは、知る由もなし。
その後学生生活を送る上で必要な場面に何度も出くわし、いい加減パーソナルなコンピュータを購入した。それはM社のもの。周囲の状況や金額的な面などから、妥当な選択だったと思う。道具として考えても、付加価値はあまり意味をなさない。買い換えもして、今まで申し分なく使ってきた。ひそかに品はないよなぁと思いながら。そしてここにきて、新たな環境を手に入れる。満を持して、といえるかもしれない。環境を変えることに、結構思い切った。再びA社のパソコンと出会う。
慣れもあるだろうけど、不満がないとはいえない。それでも買い物としては、満足のいくもの。所有欲を満たしてくれる。どうか末永く、サポートしてもらいたい。
今年一年も、さまざまなことが起きた。うれしいことも悲しいことも、残念なことも数限りない。悔しくて社会に失望感を抱いても、やはり生きて未来を授かっていることが、幸せに思う。そして果たすべき使命があるんじゃないかと、勇気づけられる。
大晦日にはうっすらと雪が積もった。都会に住んでいると、お正月やゴールデンウィーク、お盆など年に数日、街がひっそりするのを味わえる。土地のもつ容量をはるかに超えた社会を載せる都市が静まるとき、非日常の貴重な時間を得られたような新鮮な気持ちと、郷愁に似た、でも孤独な存在感を覚える。今日は雪もあって、なおさら。
おだやかに、マイペースに。誰も無理を強いられない、希望をもって朝が迎えられて、伸びやかに空を仰ぐことができる、ゆったりとした時間が流れることを願って、年を越したい。