親が子どもを注意していた。コンクリートの擁壁にあがるための階段。その階段の脇は、滑るのにちょうどよさそうな坂になっている。子どもはそこに腰かけて、滑るタイミングをはかっている様子。でもちょっとはずれると2階ほどの高さからアスファルトの道へ、、、 ちょっとこわい。
「やっていいことと悪いことがあるでしょ。やめなさい」
下に落ちたら大惨事。親は心配でしょうがない。しかし子どもはおかまいなし。今にも滑り出しそう。親はまた声をかける。
「落ちたらどうするの。けがしたらみんなに迷惑かかるでしょ」
おや?
子どもって言葉を結構シビアに受け止めているように思う。だから注意するのに「人の迷惑になるから」なんて回りくどい言い方じゃ、真意は伝わらないんじゃないか。我が子を愛する気持ちから、危険なことをやめさせたいと思って注意する。その気持ちを伝えられたらいい。君を愛しているから、傷ついたら悲しくなるから、やめてほしいと。うんちくが好きな大人と違って、ストレートな方がきっとわかりやすい。
この話にはつづきがある。
滑りたくてしょうがない少年は、いっこうに降りる気配がない。母は当然、語気を強める。
「死んじゃったらどうするの。みんなが困るからやめなさい」
すると子どもが答える。
「死んじゃってもいいもん」
どきっとする。口先だけのことだとはわかっていても、子どもの口から「死」なんて恐ろしい言葉が容易く出てくることに驚き、親子の会話の中でこの言葉があまりにも平然と交わされることが、異様に思えた。
初めて死んだ人に接したのは小学校一年のときだった。夜中に叩き起こされ、眠い目をこすりながら遠くの町まで出かけた。病院のベッドで横になっていたのは祖父。しばらく前から病気で入院していたのは知っていた。しかし人が死ぬということが、まったくわかっていなかった。目の前で息を引き取った祖父と、嘆き悲しむ親族たち。ただただ恐ろしかった。
生気を失ってしまった祖父の体に触ることはできなかった。触ったら、よくわからない「死」というものが乗り移ってきてしまうのではないかと、緊張した。その悲しい記憶が、今でもはっきり残っている。だから「死ぬ」なんて、そう簡単には口にできない。
もう半月ほどしたら、あまりにも早くに命を落とした後輩の命日がくる。人の死がもたらす悲しみは、”みんなが困るから”なんて生易しいものではない。わんぱくでいい。たくましく、生きてほしい。
うちの牛乳は瓶に入って届く。他にもオレンジジュースやマヨネーズも瓶に入っている。積極的に選んでいるわけではなく、選択肢がないだけ。牛乳パックも、油を捨てるときやちょっとまな板代わりになんてときに重宝するから、たまにはあっていいかなと思うときがあるくらい。
思い返してみれば、中学から高校まで、牛乳は瓶に入っていたように思う。牛乳瓶の入ったケースを運ぶのは、重たくて嫌な仕事だった。あの分厚いガラスの牛乳瓶に牛乳が一杯(180ml)に入って、それが30本。重いわけだ。そしてあのつまみにくいふた。誰もが使いにくいと思いながら、これだけ改善されずにあるものもなかなかないんじゃなかろうか。ふたを刺してはずす千枚通しのような道具じゃ、ちょっと情けない。
そんな瓶もずいぶん改良されてきている様子。うちに届く牛乳瓶は切れの悪さが玉にきずだけど、軽くて丈夫ということで、なんとグッドデザイン賞。ビール瓶も、K社のものは軽くなった。ケースでもち比べてみると一目(?)瞭然。こうすることで、ネックとなっている流通の部分を克服しようとしている。
瓶に入った牛乳を見ると、ほとんどの人がおいしそう、と言う。確かにおいしい牛乳だけど、見た目もおいしそう。清潔感があったりていねいな感じがしたり、瓶の印象ってとてもいい。銭湯に入ったら、やっぱり瓶入り牛乳をぐいっとやりたい。おいしいものにはわけがある。ひと手間かけると、いろいろおいしい。
『会社への忠誠心、日本が世界最低 「非常にある」9%』 ※ asahi.comより
日本人は勤勉で働き者、なんて思っていたけど、意外とそうでもなかったらしい。働きアリも7割はさぼっているというから、自分も含めて人間だってみんながみんな一生懸命とは思わないけど、4人に1人が仕事に熱意を感じてないなんて聞くと、ちょっとさみしく思う。
仕事のために生きてるわけじゃなくても、どうしたって一日の大半は仕事に費やしている。その時間を無為に過ごさないようにするには、目的意識をもっていないといけない。それはどんな仕事にだって共通。達成感があってこそ、充実した日々が送れる。
ニューヨークを訪ねていたときに気づいたことのひとつに、仕事や職場の愚痴を聞かなかったというのがある。お酒を飲みにいったり、旧知の友人で集まったりすると、どうしても職場の不満を聞かせあったりしてしまうもの。それが、あちらで会った人たちの間ではまったくなかった。環境は違えども、それぞれに楽しんでいるように見えた。
調査会社(米)曰く”「米国は不満があれば転職する。日本は長期雇用の傾向が強いこともあって、相当我慢しているのではないか」と分析している”んだそうだ。Nテレビの看板アナウンサーがフリーになるなんて発表もあった。一旦雇用されたら勤めあげる。そんなスタイルがすり込まれているから、社会に出る前に何がしたいかはっきりさせたいと長く大学に籍を置いたり、引きこもりがちになってしまったりということもあるかもしれない。思い立ったときにいつでも環境に変化を加えられる、そんなフレキシブルな社会になったら、きっと面白い。
流しで手を洗い、ついでに顔を流してタオルで拭う。ちらりと空を仰いだら、窓越しに見えた青空がひどくきれいだった。この映像、写真に撮って残しておきたい。そんな気持ちが脳裏をよぎる。
この感動を記録しておくことは、そんな難しいことじゃないかもしれない。写真に撮る、日記に書き留める、忘れずに記憶しておく。その写真を見たとき、日記を読み返したとき、ふと思い出したとき、その感動がじわじわとよみがえってくる。
でもそれは自分のことだから。自分の味わった感動だから、思い出すことができる。でもこれを人に伝えることは、ちょっと難しい。手を洗って空を見る。そんなことはよくしていること。改めて同じ動作をしてみても、感動はない。その瞬間の気持ちの状態、空気の感じ、光の具合、いろんなことが重なってできた、またとない状況が生んだ感動。全く同じ感動を共有するのは不可能に近い。
だから表現するって難しいように思う。すばらしい映像をとらえた写真は、すばらしい映像に立ち会った写真家の感動を再現できるような、感動を与える映像でないとならない。心震えるメッセージを伝える歌は、どきどきするようなメロディーにのっていないと響いてこない。物語を十分に味わってもらうためには、適切な言葉を選ばないといけない。感動を伝えるためには、感動するような表現になっていないといけない。そうでないと、記録にしかならないかもしれない。
人は様々な場面でつながっている。独りでいるような気がしていても、必ず誰かに支えられ、助けられている。そして、助けになっている。つながりを求めることは恥ずかしいことじゃない。共有したいという気持ち、素直になるほどだんだん強くなってくる。そしたらみんなしたくなる。表現すること。相手がいると、気持ちがあると、決して難しいことじゃない。感動を伝えるために、感動的な表現が増えていく。世の中、華やかになる。