夕暮れ時、雨も上がっていたしちょっと時間が空いたので、簡単に庭の草取りをした。湿った土は程よく柔らかくて、草の根まで結構よく抜ける。日中と違って日差しも柔らかいから、心地いい。はずだった。
しばらくすると、おびただしい数のヤブ蚊に追われていた。庭の奥にある池の中で大量発生しているのかもしれない。獲物の絶対数が少ないから、一極集中。そんなはずはないけど、こいつらに一度に襲われたら血が足りなくなって倒れちゃうんじゃないかと思えるくらいの集団。
北陸に住んでいたときには、なぜか蚊に悩まされたことがなかった。借りていた部屋には網戸がなかったのに、ほとんど入ってこない。外で遊んでいても、かゆくて仕方ないということがなかった。山からの伏流水が豊富で、いつも流れがあるからかなとか考えてはみたものの、なぜかよくわからない。田んぼに囲まれていたのに。
それが東京に帰ってくると、とたんに蚊の餌食に。とくに西部へ行くともう大変。これハエじゃないよねぇ というような立派な蚊に血を吸われている。それでもヒルに血を吸われているのを見るのとは違って、案外気楽。かゆくなるような害はないものの、血を吸って膨らんだヒルをはがすのは、何とも感触が悪いもの。この国ではそんなことあまりないけど。
そんなヤブ蚊の大群に、今年も枯れ草色の渦巻き香を焚いている。飛んでいる蚊がぽとりと落ちたり、家の中を一晩さまよっていたスズメバチが翌日落ちてくるような、目を見張る効果がある鮮やかな緑色の金○の蚊取り線香とはちょっと違う、穏やかな香の香り。この夏も、どうぞよろしく。
(曲がりなりにも)プロとはいえ、失敗をする。ただただ未熟だから、といってしまえばそれまで。でも、凡ミスって結構一生やりつづけてしまうんじゃないかと、考えると恐ろしいやらおかしいやら。
学生の時分から、とにかく確認が大切と、耳にタコができるほど聞かされてきた。そんなこたぁわかっているさと、高をくくっているとそれみたことかと、絶妙なタイミングでミスが発覚してしまう。その悔しさときたら、あきれるほど。
比較的よくあるのは、マーキングがずれていて、加工してみたら組み合わさらないとか、間違った箇所に穴をあけてしまうとか、表と裏を取り違えていたとか。制作に取りかかるときには工程を組んで一気に進めていくから、ミスに気づいたときの空振り感は大きい。行程を後戻りする無念。
しかし乗り越えてみると、そんなハプニングが意外と愉快な記憶になっていたりする。所詮ヒトの為すこと。失敗もある。ないに越したことはないから、成功のもと、とまでは思わないけど、推進のエネルギーにはなるような気がする。失敗は、人生そのもの、かも。
どんなにていねいにかたちづくっても、かなわないものがある。そのひとつが、古さ。ボロい、とはちょっと違う、古くて味のあるもの。
お金と時間と技術力を惜しみなく注ぎ込むと、いいものができる。わけではない。目的があって、そのための条件を満たすものをつくるにはそれでいい。でも”いいなぁ”とほろりとさせてくれるものは、そういう道のりじゃ生まれない。必要と、手遊びと、時間に育まれることでかたちづくられるたたずまい。それが味。
学校で使っている、スチールとプリント合板の学習机がすてきだと思って使っている小学生には、会ったことがない。ノスタルジーを感じて、かわいいと思うのはオトナ。あの頃と何も変わっていない、薄汚れて地味でそっけない机や椅子に、使い込まれた味を見いだす。すると、価値がグンと上がる。薄っぺらな印刷がされたチラシだって、ひなびた銭湯だって、味があればすてきだ。
商売になるものだから、金槌で叩いてみたり、オイルをすり込んでみたり、材料を土に埋めてみたり。様々な方法で古さを身にまとった新品が出回っている。本当に古いものと見まがうばかりのものもあれば、もちろんデコラティブなものも。
使い手の歴史で培われるふるきよきもの。それに応えられるものを生み出すつくり手の誠意。一筋縄では成り得ない魅力。

「メモの束 vol.12」掲載
少年は確か4歳。活発で、よくしゃべる。この年頃でも、どちらかというと男の子は話がまだ上手ではなく、言葉遣いの巧みさで女の子に引けを取るように思うが、この子はいつでもはきはき。人見知りせず、いろんなことによく気もつく。そんな少年が、ぼくの携帯電話を手に取っていった。「この携帯電話、かっこいいね」
驚いた。ほとんどおもちゃのように(オトナのおもちゃです)携帯電話をいじる子どもはたくさんいるけど、そのものについてこうはっきりと感想をいう子どもは初めてだった。そしてさらに「でもこのボタン、押しにくそう」。といって笑顔を向ける。気に入って手に入れてからもうすぐ3年経つ携帯電話。確かになれないと、押しにくい配列と小ささのボタン。使う場面まで想像して意見をいえるなんて、ひょっとしたらひょっとして、少年は天才かもしれない!?
これだけものがたくさんあって、そのものたちについての情報が錯綜している社会にあって、物欲を誘導する要素は、必ずしも自分の目と感性だけではない。金額、性能はもちろん、どこのメーカー(ブランド)のものか、誰がデザインしているか、どのような評価がされているか、どれだけ有名か、、、といった付加情報によって決定づけられていく。例外はもちろんあるものの、多くの人が選ぶものだとわかると、安心できる。
だからこそ、主観でセレクトできるようになると面白い。人がいいというものが必ずしもいいわけではない。十人十色、好みも違えば生活も違う。自分の思いと呼応するものと出会ったときの喜び。どこのお店をのぞいても同じようなものしか並んでいない今だからこそ、かけがえのない瞬間となる。
少年の妹。まだ1歳にも満たない。すでに歩き回って、ときには兄を凌駕する迫力を臭わせる。この兄妹、すてきなものに囲まれて育ったら、面白いことになるかもしれないと思った。
うちにいる車は、はっきりいってボロい。設計されたのは40年以上も前。うちの車もつくられて14年が経とうとしている。いつもどこかしら不具合があって、安心、楽ちん、快適なんて言葉が似合わない。今はこんなに暑い日がつづいているというのに、ヒーターから温風が出っぱなし。もちろんクーラーはすでにきかなくなってるから、走れば走るほどサウナ状態。それでもこれくらいなら走るだけいいという感じ。慣れって恐ろしい。
比較的よくあるのは電気系統のトラブル。ウインカーがつかないなんて常習で、テールランプやらパネルライトやら、はたまたワイパーやら。今時のドライバー、腕の方向指示なんて気づいてくれないだろうなぁ 大げさのになると、古い車にありがちなオーバーヒート。連休の渋滞に巻き込まれていたら水温が急上昇、道ばたで一夜を明かしたり、奥志賀まで旅行に出かけたら、途中でマフラーが折れて引きずっていたとか、焼き肉を食べてお腹いっぱいで帰ろうとしたら、エンジンがかからないとか。そりゃもう、手を替え品を替え困らせる。そのたびにJ○Fのお世話に。入っててよかった。
しかしなかなか手放せないのは、不便以上にその愛嬌のある姿と走りがいいから。移動や運搬の道具と考えると落第かもしれない。でも乗っていて楽しくて、見られてちょっと嬉しいなんて、十分な魅力。ものを長く使うというのは環境のことを考える上でも基本だし、実は燃費だってそこらのフツーな車に引けを取らない。技術は進んでいるはずなのに、走っていたら火を噴くだとか、プレーキがきかなくなるだとかいうM自動車のこともあるから、そんなこと考えるとずっと安心。
だけど、夏が過ぎたら乗り続けるかどうか、真剣に考えなくてはいけない。ドアに穴があいたり、バッテリーが落ちてしまうのも時間の問題。場合によっては、悲しい選択も。ものにはそれぞれ寿命があって、こだわりも大切、でも新しい出会いがあったらそれはまた、いいのかもしれない。