夏の終わりに、ちょっとした縁で、マリア像の補修を依頼された。教会は箱根の山の中。脇を走る急な坂道を、エンジン音を響かせて上っていく車からは、ちょっと気づかないかもしれない。箱根の大文字焼きを正面に望む森に囲まれ、ひっそりと建っている。普段教会を守っているのは、マスール(フランス語で "私の姉妹" の意。"シスター" と同義だそう)一人。おだやかに過ぎていく日々が想像される。
補修した像は3体。敷地の入り口に立つ、生涯を看護に捧げたという(だったような気がする)女性と、奇跡の場面を再現したという、見えなかった目が見えるようになった女性と、聖母マリアの像。それらがいつ頃のもので、どのようにつくられたのかはわからない。しかし決して高価なものでも、創作的なものでもない様子。汚れはともかく、大きく入ったひびが痛々しい。
コンクリートのひびに水が入ると、芯になっている鉄筋が錆びる。酸化した鉄はもろくなると同時に膨らむので、ひびはよりひどくなる。そのまま冬を迎えると、中に入った水が凍結して膨張し、崩壊してしまう。したがって補修は、広がりつつあるひびを埋めて進行を止めるとともに、水の浸入を防ぎ、塗装を施す。
幸い天候が安定していたので、作業は順調だった。邪魔するのは、うるさくまとわりつく蚊の群れだけ。とても静かなので、のびのびとした気持ちになる。木漏れ日の中で、黙々と女性の像に白い塗料を塗っていく。不思議なもので、特別上品にできているわけでも、美しいというわけでもないのに、そのうすくほほ笑む女性の顔は、刷毛のさばきをていねいにさせた。顔に刷毛を運ぶときは、化粧をするように(あくまでも想像)、やさしく、ていねいに、、、
日常の中で、顔をまじまじと見ることってなかなかない。顔から伝わってくる情報は多大で、ずっと見ているのは結構大変なことなのかもしれない。絵にしても像にしても、顔や目を入れるときは緊張して望む。それだけで、ものが語れてしまうほどの力があるから。マリア像の型をつくったであろう職人の、視線と指先。それが伝わってくる気がした。
免許を取ってから乗りつづけてきた車を、廃車にした。決断するまでずいぶん悩んだけど、冷静に考えられれば、判断は難しくなかったのかもしれない。うちにきてから14年。フツーの車だったらまだまだ現役でいけそうな歳月。でもうちの車はオーバーヒートする、エンジンオイルが漏れる、マフラーが外れる、ドアの中が錆でぼろぼろ、、、 故障箇所を上げたら枚挙にいとまがない。乗りつぶすつもりでいたのに、今回の車検で断念してしまった。
東京に住んでいる頃は、必要なかったので免許すらとっていなかった。JRと地下鉄を駆使し、よく歩いた。人の車に乗せてもらうときは、助手席で地図係をすることが多く、それまでばらばらの地点で認識していた地域が、線で結ばれていくイメージが面白かった。運転しなくていい分、景色も楽しめる。旅先でもそんなことをしているうちに、旅行に出かけた友人から、電話で現地の道を尋ねられたりしたこともあった。
東京を離れて暮らしはじめると、車のない生活はひどく不便だった。東京で地下鉄に乗るように、鉄道のインフラが乏しい土地では車に乗る。人の往来が少ないから、バスも走らない。免許と車をもつことは、ほとんど義務のようなもの。"地球環境のためにも、自家用車はやめて電車やバスを利用しましょう" なんて提言が、悠長なものに聞こえる。理解はできても、実践できる環境が整っていない地域の方が多いのが現状。意識だけで片付く問題ではない。
免許と車を手に入れると、それはもう "どこでもドア" のようだった。時間と体力さえあれば、どこにでもいけるような気がした。だから暇さえあれば、南へ西へ、ずいぶん走り回った。もし寿命を全うせずに命を落とすようなことがあったら、それは車の事故かもしれないと思うようなことも、なきにしもあらず(それでも免許はゴールドになっていたりするからフシギ)。気に入っていたのはもちろん、共に思い出を築いてきたわけだから、別れが名残惜しいのは当然。虫歯で初めて金属の詰めものをしたときのような、沈痛な気持ち。
しかし、車は幸い工業製品。他にも代わりは選び出せる。かわいいあいつはいなくなったけど、次の相棒を探しはじめた。相性が合いそうなのはどれかなぁ

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10月17日まで、望月薫が青山でグループ展をしています。詳細はこちら (Click!) へ。お近くにお越しの際、お立ち寄りいただけると幸いです。
ぼく、目が悪いんですよね。そこら辺も、ぼんやりとしか見えない。
といって、彼はこちらの周辺を示すように手を振った。こんな間近で対面しているのに、はっきり見えていなかったとは。ちょっと驚く。車の運転はしないというから、生活を送る上で視力の補正を強要されることはないようだけど、困ることはないのかと、余計な心配をしてしまう。彼曰く、余計なものが見えなくて、むしろいいんだとか。
自分のことをいうと、一般的に必要とされている視力より弱いことになっている。だから、必要と思って眼鏡をかけたり、コンタクトを入れたり。補正した方がいいと気がつくまでは、ぼんやりした視界のままでよかった。見たいものがあれば、必要な距離を調節すればよかったわけで。もしかすると、それなりに行動範囲も狭かったのかもしれない。
見える、見えないで、人生の充実感に差が生まれるとは思わないけど、目で見るということにどっぷり頼った暮らし方をしているから、今のところこれなしの生活は考えにくい。目を背けたくなるような醜いことはさんざんあっても、それが現実だし、その現実には、嬉しくなるような美しいものや、見るべきものもたくさん展開されている。そこから刺激を受けて、活動に反映されていくことも多い。
見えるうちは、見えるに越したことはないのかな。