ぼく、目が悪いんですよね。そこら辺も、ぼんやりとしか見えない。
といって、彼はこちらの周辺を示すように手を振った。こんな間近で対面しているのに、はっきり見えていなかったとは。ちょっと驚く。車の運転はしないというから、生活を送る上で視力の補正を強要されることはないようだけど、困ることはないのかと、余計な心配をしてしまう。彼曰く、余計なものが見えなくて、むしろいいんだとか。
自分のことをいうと、一般的に必要とされている視力より弱いことになっている。だから、必要と思って眼鏡をかけたり、コンタクトを入れたり。補正した方がいいと気がつくまでは、ぼんやりした視界のままでよかった。見たいものがあれば、必要な距離を調節すればよかったわけで。もしかすると、それなりに行動範囲も狭かったのかもしれない。
見える、見えないで、人生の充実感に差が生まれるとは思わないけど、目で見るということにどっぷり頼った暮らし方をしているから、今のところこれなしの生活は考えにくい。目を背けたくなるような醜いことはさんざんあっても、それが現実だし、その現実には、嬉しくなるような美しいものや、見るべきものもたくさん展開されている。そこから刺激を受けて、活動に反映されていくことも多い。
見えるうちは、見えるに越したことはないのかな。
といって、彼はこちらの周辺を示すように手を振った。こんな間近で対面しているのに、はっきり見えていなかったとは。ちょっと驚く。車の運転はしないというから、生活を送る上で視力の補正を強要されることはないようだけど、困ることはないのかと、余計な心配をしてしまう。彼曰く、余計なものが見えなくて、むしろいいんだとか。
自分のことをいうと、一般的に必要とされている視力より弱いことになっている。だから、必要と思って眼鏡をかけたり、コンタクトを入れたり。補正した方がいいと気がつくまでは、ぼんやりした視界のままでよかった。見たいものがあれば、必要な距離を調節すればよかったわけで。もしかすると、それなりに行動範囲も狭かったのかもしれない。
見える、見えないで、人生の充実感に差が生まれるとは思わないけど、目で見るということにどっぷり頼った暮らし方をしているから、今のところこれなしの生活は考えにくい。目を背けたくなるような醜いことはさんざんあっても、それが現実だし、その現実には、嬉しくなるような美しいものや、見るべきものもたくさん展開されている。そこから刺激を受けて、活動に反映されていくことも多い。
見えるうちは、見えるに越したことはないのかな。