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蝉の恐怖

夏といえば蝉。蝉の鳴き声は、夏らしさを存分に演出してくれる。
庭に出ると、毎日のように見かける抜け殻。そして地面にあいた穴。これだけたくさんの幼虫が土の中にいるとすると、そこにできた道路の下とか、あちらに建った家の下とか、この仕事場の下にだって、どれだけの幼虫が埋まって(棲んで)いるんだかしれない。出てこられない彼ら。無念。
暑苦しさ満点だけど、日中外で鳴いているのはまあ情緒があっていいとして、網戸にとまっていたりすると、これがなかなか迷惑な話。部屋中に響き渡る求愛の悲痛(?)な叫び。そう辺り構わず騒ぐのではなく、もっと狙いを定めてから言い寄ってくれれば、それほど大音響にしなくてよさそうなもの。でも成虫でいられる時間は少ないらしいから、そう悠長なこともいってられないのかな。
この蝉、子どもの頃は電信柱にとまっているのを捕まえてみたりしたもの。でもいつの間にか、あまりよく見られない(見たくない)存在になってしまった。それも、ちょっとしたつまらない記憶のせい。
小学校で、いろいろな”〜全(オール)百科”といった、小さくて分厚い本が流行っていた。ドラえもんの道具だったり、心霊写真だったり。その類いで怖い話を集めた本の中に、漫画があった。
少年が学校でいじめにあっている。いじめはエスカレートしていって、いじめっ子たちは少年に生きた蝉をたくさん食べさせた。少年は体調を崩して寝込んでしまった。すると数日後、なんとその少年、セミ男になってしまったのです。そしていじめっ子たちに復讐したんだかしなかったんだか。復讐といっても、耳元で鳴くくらいしかできなさそうなものですが。
そのセミ化した少年の絵がひどく気持ち悪くて、蝉が見られなくなってしまった。少年少女に向けて出版している割には、なんともむごい内容。蝉を食べる土地だってあるくらいだから、そんなことになるはずがないのにね。
ウルトラマンに出てくるバルタン星人もとても蝉っぽいけど、悪役ながら、時折見せる悪役なりの情が安心させてくれる。蝉の鳴き声に、求愛の気持ちが聞き取れたら、克服できるかもしれないなぁ
いやいや、やっぱり暑苦しいか。

夏のかおり

週末の夜、電車に揺られていた。暑い中よく歩いて、くたくた。比較的空いた車内。こういうときは、エアコンの風も気持ちいい。空いている席もちらほらあるのに、立っているグループ。
夏休みに以前の学校の(高校生と推定。おそらく中学時代の)友人で集まって、遊園地にでも行ってきたのだろうか。女の子4人に男の子1人。女の子たちのにぎやかなおしゃべりの輪の中で、帽子をかぶったおしゃれな男の子は、言葉少ない様子。
しばらくして女の子3人が、同じ駅で降りていった。残された女の子と男の子。するとどうか。男の子がにわかに活発に。俄然いい雰囲気。そうこうしているうちに、こちらの降車駅。ちらりと目をやると、二人組も同じ駅で降車。出口も一緒。向かう方向も一緒。
それとなく気にしながら歩いていくと、女の子は駅前のロータリーに停車していたバスに乗り込んだ。ここでお別れ。せっかくいい雰囲気になったと思ったのに。暑い夏も、夜になるとちょっと涼しいねぇ
ぶらぶら歩いていると、男の子がすたすたと追い抜いていった。さらに後ろから、車道を走り抜けていくバス。最後列の車窓に、先ほどの女の子の姿。携帯電話を片手に、男の子を目で追いかけている(ように見える)。男の子はというと、気づくことなく早歩き。そして、走り出した。横断歩道の信号が赤に変わる。きっともどかしい時間。
横断歩道を渡った男の子は、駐輪場にとめていた自転車にまたがると、バスが走っていった道へ向かってこぎだす。バスを追いかけ、家の近くの停留所で降りる女の子の許まで(?)。間に合うかな。間に合ってほしい。この夏の暑さは、まだまだつづきそう。

あの人のメロディー

中学に入学したとき、技術の教師が新入生に、輪切りにしたヒノキを配ってこう話した。
香りは記憶を呼び覚ますきっかけになる。祖父母の家に漂っていた線香の香り、海で遊んだときの磯の香り、旅先で嗅いだ異国の料理の香り、、、 ふとしたときに同じ香りを嗅ぐと、その香りと深く結びついている記憶が蘇ってくる。君たちが今手にしているヒノキから放たれている香り。この香りを嗅ぐとき、きっとこの学校に入学してきたときの、希望に満ちた新鮮な気持ちが思い起こされるだろう。そう願って、これをみんな贈ります。
それからというもの、ヒノキの香りを嗅ぐたび、中学に入ったばかりの青臭い時代が思い起こされて、照れくさい、、、 ということでもない。ヒノキの香りは直接そこには結びついていなくて、結局その話をしてくれた教師と、そのときの場景が思い出されてしまう。ちょっとだけ、的が外れてしまったらしい。
それと同じような感覚で、音楽が人と結びついていたりする。MのNを聞くと、Kさんが思い出されたり、KのDを聞くと、Aさんが思い出されたり。これはもう主観でしかなくて、勝手なイメージだったり、思い出の中でBGMになっていたものだったり、その頃巷によく流れていたものだったり。記憶の中のテーマ曲は、曲の善し悪しなど関係なく、すてきに聞こえる。そして、記憶の中の場面がドラマチックになる。
元気満々な大学教授、齋○孝氏が説くように、年を重ねていくことで「あのころ力」が失われていく(35歳を過ぎた頃から、下降線をたどるらしい)のであれば、こういった青臭い郷愁は忘れていくものなのかもしれない。「あのころ」を懐かしむ力が失われていく、「あのころ」が消失する! 氏曰く、それは当然あるべき成長で、こぞって「あのころ」離れできていない今時の風潮がおかしいんだとか。
「あのころ」に固執するばかり、現実を直視せず、将来を思い量らなくなっては困るけど、前へ進んでいく推進力にはなっているんじゃないかなぁ、と思う20代。若輩者であるから故必要な力なのかもしれない。年を重ねることで宿る他の力があるのかも。どこぞやのキャッチコピーじゃないけど、NO MUSIC, NO LIFE.

あなたは手ブレする!?

ときどき、おっと思うキャッチコピーに遭遇する。いいとかつまらないとかいう評価じゃなくて、とりあえずおっと思う。気になるということは、キャッチコピーとしてはひとまず成功。ま、たいていはおかしくって目に留まるのですが。
ここのところ面白かったのは、「人は手ブレする」。いわずと知れた、○ナソニックのデジタルカメラの広告。そりゃまあそうなのかもしれませんが、こう面と向かって否定されると、何だか歯がゆい。「手ぶれする」のあとに、「ざんねーん!」と聞こえてきそうで、ダメだしされているような申し訳ない気持ちになる。ひとつ前の「あゆはブレない」の方が、表現が肯定的で耳になじみやすかったように思う。とりあえずインパクトあり。
そしてついつい笑ってしまうのが、環八(カンパチ)の砧公園辺りにかかっている横断幕。「ポイ捨て かっこわるいぞ!」だって。黄色(しかもちょっと濁っている)地に黒角ゴチックで大書されているのを見れば、きっとあなたもにやけるはず。こちらも否定的な表現ながら、ぎくっとするより茶化されている感じ。もっと色気を出した方が効果あるかも。
キャッチコピーといえば、コピーライター。コピーライターという専門家があまり認識されていなかった頃に、その存在を世に知らしめたのが、きっと「ほぼ日刊イトイ新聞」http://www.1101.com/index.htmlの糸井重里氏。スタジオジブリの諸作品をはじめ名作はいろいろあるけど、N自動車の「くう ねる あそぶ」が鮮烈だったような記憶がある。沢○研二の「TOKIO」の作詞もしていたり。ことば遊びといえば谷川俊太郎氏だったけど、ビジネスにのっとったライターとして、興味深い。
そういえば小学生のときに、投票を呼びかける標語のコンクールで、表彰されたような気がする。選挙というシステムをよくわかっていない少年が、標語を考えるなんてちょっと無理。それらしい言葉を、音の響きで並べてみたら、オトナに受けたらしい。確か「その一票 平和な社会 つくるカギ」(定かではありません)だったような。子どもが考えたにしては、くさい。
記憶にあるのは、校長から賞状を受けるのに朝礼のとき朝礼台の前に並ばされたら、自分だけ半ズボンだったのが妙に恥ずかしかったことくらい。これを誇りに思えれば、先があったかもしれないのに。ことば遊びには、向いていなかったようです。

上野動物園のカバの前にある「ほぼ日刊イトイ新聞」の広告。あんなのどかな場所に看板が出せるなんて、ちょっとうらやましい。

ぽんこつじどうしゃ

うちにいる車は、はっきりいってボロい。設計されたのは40年以上も前。うちの車もつくられて14年が経とうとしている。いつもどこかしら不具合があって、安心、楽ちん、快適なんて言葉が似合わない。今はこんなに暑い日がつづいているというのに、ヒーターから温風が出っぱなし。もちろんクーラーはすでにきかなくなってるから、走れば走るほどサウナ状態。それでもこれくらいなら走るだけいいという感じ。慣れって恐ろしい。
比較的よくあるのは電気系統のトラブル。ウインカーがつかないなんて常習で、テールランプやらパネルライトやら、はたまたワイパーやら。今時のドライバー、腕の方向指示なんて気づいてくれないだろうなぁ 大げさのになると、古い車にありがちなオーバーヒート。連休の渋滞に巻き込まれていたら水温が急上昇、道ばたで一夜を明かしたり、奥志賀まで旅行に出かけたら、途中でマフラーが折れて引きずっていたとか、焼き肉を食べてお腹いっぱいで帰ろうとしたら、エンジンがかからないとか。そりゃもう、手を替え品を替え困らせる。そのたびにJ○Fのお世話に。入っててよかった。
しかしなかなか手放せないのは、不便以上にその愛嬌のある姿と走りがいいから。移動や運搬の道具と考えると落第かもしれない。でも乗っていて楽しくて、見られてちょっと嬉しいなんて、十分な魅力。ものを長く使うというのは環境のことを考える上でも基本だし、実は燃費だってそこらのフツーな車に引けを取らない。技術は進んでいるはずなのに、走っていたら火を噴くだとか、プレーキがきかなくなるだとかいうM自動車のこともあるから、そんなこと考えるとずっと安心。
だけど、夏が過ぎたら乗り続けるかどうか、真剣に考えなくてはいけない。ドアに穴があいたり、バッテリーが落ちてしまうのも時間の問題。場合によっては、悲しい選択も。ものにはそれぞれ寿命があって、こだわりも大切、でも新しい出会いがあったらそれはまた、いいのかもしれない。

ひょっとしたら

少年は確か4歳。活発で、よくしゃべる。この年頃でも、どちらかというと男の子は話がまだ上手ではなく、言葉遣いの巧みさで女の子に引けを取るように思うが、この子はいつでもはきはき。人見知りせず、いろんなことによく気もつく。そんな少年が、ぼくの携帯電話を手に取っていった。「この携帯電話、かっこいいね」
驚いた。ほとんどおもちゃのように(オトナのおもちゃです)携帯電話をいじる子どもはたくさんいるけど、そのものについてこうはっきりと感想をいう子どもは初めてだった。そしてさらに「でもこのボタン、押しにくそう」。といって笑顔を向ける。気に入って手に入れてからもうすぐ3年経つ携帯電話。確かになれないと、押しにくい配列と小ささのボタン。使う場面まで想像して意見をいえるなんて、ひょっとしたらひょっとして、少年は天才かもしれない!?
これだけものがたくさんあって、そのものたちについての情報が錯綜している社会にあって、物欲を誘導する要素は、必ずしも自分の目と感性だけではない。金額、性能はもちろん、どこのメーカー(ブランド)のものか、誰がデザインしているか、どのような評価がされているか、どれだけ有名か、、、といった付加情報によって決定づけられていく。例外はもちろんあるものの、多くの人が選ぶものだとわかると、安心できる。
だからこそ、主観でセレクトできるようになると面白い。人がいいというものが必ずしもいいわけではない。十人十色、好みも違えば生活も違う。自分の思いと呼応するものと出会ったときの喜び。どこのお店をのぞいても同じようなものしか並んでいない今だからこそ、かけがえのない瞬間となる。
少年の妹。まだ1歳にも満たない。すでに歩き回って、ときには兄を凌駕する迫力を臭わせる。この兄妹、すてきなものに囲まれて育ったら、面白いことになるかもしれないと思った。

ふるきよきもの

どんなにていねいにかたちづくっても、かなわないものがある。そのひとつが、古さ。ボロい、とはちょっと違う、古くて味のあるもの。
お金と時間と技術力を惜しみなく注ぎ込むと、いいものができる。わけではない。目的があって、そのための条件を満たすものをつくるにはそれでいい。でも”いいなぁ”とほろりとさせてくれるものは、そういう道のりじゃ生まれない。必要と、手遊びと、時間に育まれることでかたちづくられるたたずまい。それが味。
学校で使っている、スチールとプリント合板の学習机がすてきだと思って使っている小学生には、会ったことがない。ノスタルジーを感じて、かわいいと思うのはオトナ。あの頃と何も変わっていない、薄汚れて地味でそっけない机や椅子に、使い込まれた味を見いだす。すると、価値がグンと上がる。薄っぺらな印刷がされたチラシだって、ひなびた銭湯だって、味があればすてきだ。
商売になるものだから、金槌で叩いてみたり、オイルをすり込んでみたり、材料を土に埋めてみたり。様々な方法で古さを身にまとった新品が出回っている。本当に古いものと見まがうばかりのものもあれば、もちろんデコラティブなものも。
使い手の歴史で培われるふるきよきもの。それに応えられるものを生み出すつくり手の誠意。一筋縄では成り得ない魅力。
「メモの束 vol.12」掲載

失敗は成功のもと

(曲がりなりにも)プロとはいえ、失敗をする。ただただ未熟だから、といってしまえばそれまで。でも、凡ミスって結構一生やりつづけてしまうんじゃないかと、考えると恐ろしいやらおかしいやら。
学生の時分から、とにかく確認が大切と、耳にタコができるほど聞かされてきた。そんなこたぁわかっているさと、高をくくっているとそれみたことかと、絶妙なタイミングでミスが発覚してしまう。その悔しさときたら、あきれるほど。
比較的よくあるのは、マーキングがずれていて、加工してみたら組み合わさらないとか、間違った箇所に穴をあけてしまうとか、表と裏を取り違えていたとか。制作に取りかかるときには工程を組んで一気に進めていくから、ミスに気づいたときの空振り感は大きい。行程を後戻りする無念。
しかし乗り越えてみると、そんなハプニングが意外と愉快な記憶になっていたりする。所詮ヒトの為すこと。失敗もある。ないに越したことはないから、成功のもと、とまでは思わないけど、推進のエネルギーにはなるような気がする。失敗は、人生そのもの、かも。

蚊の来襲

夕暮れ時、雨も上がっていたしちょっと時間が空いたので、簡単に庭の草取りをした。湿った土は程よく柔らかくて、草の根まで結構よく抜ける。日中と違って日差しも柔らかいから、心地いい。はずだった。
しばらくすると、おびただしい数のヤブ蚊に追われていた。庭の奥にある池の中で大量発生しているのかもしれない。獲物の絶対数が少ないから、一極集中。そんなはずはないけど、こいつらに一度に襲われたら血が足りなくなって倒れちゃうんじゃないかと思えるくらいの集団。
北陸に住んでいたときには、なぜか蚊に悩まされたことがなかった。借りていた部屋には網戸がなかったのに、ほとんど入ってこない。外で遊んでいても、かゆくて仕方ないということがなかった。山からの伏流水が豊富で、いつも流れがあるからかなとか考えてはみたものの、なぜかよくわからない。田んぼに囲まれていたのに。
それが東京に帰ってくると、とたんに蚊の餌食に。とくに西部へ行くともう大変。これハエじゃないよねぇ というような立派な蚊に血を吸われている。それでもヒルに血を吸われているのを見るのとは違って、案外気楽。かゆくなるような害はないものの、血を吸って膨らんだヒルをはがすのは、何とも感触が悪いもの。この国ではそんなことあまりないけど。
そんなヤブ蚊の大群に、今年も枯れ草色の渦巻き香を焚いている。飛んでいる蚊がぽとりと落ちたり、家の中を一晩さまよっていたスズメバチが翌日落ちてくるような、目を見張る効果がある鮮やかな緑色の金○の蚊取り線香とはちょっと違う、穏やかな香の香り。この夏も、どうぞよろしく。

夏の暑い一日

立ちこめる線香の煙。途切れることのない人の波。祈りの声。梅雨時なのになぜか晴れることの多いその日。今年も暑い一日だった。
この国で唯一地上戦を記憶する、その土地が迎える60回目の組織的攻防の終焉の日。平和を祈念する広場で、過去の悲惨なできごとを悔やみはするものの、平和を希求する姿勢を見せることなく退散した来賓を乗せた黒塗りの車の列が、信号機を止めて一般の車を遮断した田舎道を、ノンストップで走り去っていく。
戦の後、野ざらしになっていた遺骨を最初に葬った場所。そこに集められた亡骸は敵味方を問わず、4万に近いといわれている。慰霊に訪れる人たちのたたずまいの中に、その時代をまさに生きてきた人は少ない。時が流れ、価値観が移ろうのは自然なこと。しかし世代を超えて語り継がれていくことがあり、あってはならないことがある。
自分のこと、相手のこと、世界のこと。様々な立場のことを想像できる力を豊かにもつことができるのがヒト。誰にとっても住み心地がいい、平和な世界を願ってやまない。