お知らせ」カテゴリーアーカイブ

長い昼を楽しむ会

一年で最も昼の長い日、夏至。その夏至を目指して、毎日これでもかというくらい日没が粘っている。すぐ目につくところに時計がないから、仕事場に降り注ぐ日の光で切り上げるタイミングを計っていると、夕食の時間がひどく遅くなる。小学校のチャイムは鳴るけど、まだ明るいから近所の子どもたちもなかなか遊びを終われない様子。これで梅雨じゃなかったら、遊び放題。
今年の夏至は21日。日の出は4時半前で日没は19時(東京周辺です)。なんと昼間が14時間半。これに対して、昼の最も短い冬至(今年は12月22日)は日の出が6時半過ぎで日没が16時半頃。ということは昼間は10時間ほど。4時間半も差がある。”最も”とは時期がずれてしまうけど、サマータイムを導入したらどうかというムーブメントが起こるのも、わからなくはない。そこでそんなに昼が長いのならば、堪能しなくてはと思った。天気がよかったらBBQしてみるとか、ビール片手に海まで散歩に出てみるとか。ささやかなこと。”秋の夜長”とはまたひと味違った、夕暮れをだらだら過ごすそんな会。
とかなんとかいいながら、当日になったらすっかり忘れてるかもしれない。日の出とともに起きだせなくちゃ、14時間半は堪能できないのだから。湿った空気で気持ちまで重苦しくなりがちな季節。楽しいこと考えて気を晴らすのに、いいネタのひとつ。

100万人のキャンドルナイト

私たちは100万人のキャンドルナイトを呼びかけます。
2005年の夏至の日、6月21日夜、8時から10時の2時間、
みんなでいっせいに電気をけしましょう。
ロウソクのひかりで子どもに絵本を読んであげるのもいいでしょう。
しずかに恋人と食事をするのもいいでしょう。
ある人は省エネを、ある人は平和を、
ある人は世界のいろいろな場所で生きる人びとのことを思いながら。
プラグを抜くことは新たな世界の窓をひらくことです。
それは人間の自由と多様性を思いおこすことであり、
文明のもっと大きな可能性を発見するプロセスであると私たちは考えます。
一人ひとりがそれぞれの考えを胸に、
ただ2時間、電気を消すことで、
ゆるやかにつながって「くらやみのウェーブ」を
地球上にひろげていきませんか。
2005年、6月21日、夏至の日。よる8時から10時。
でんきを消して、スローな夜を。
100万人のキャンドルナイト。
※ 100万人のキャンドルナイトhttp://www.candle-night.org/jp/

配給開始

親戚のおじさんは、ご子息のサッカーの試合があるとビデオカメラ片手に出かけていって、ダイジェスト版のDVDをつくって残しているらしい。素直に、いい親だと思う。改めて見ることなんて全然ないものの、うちにも幼い頃録ってくれた8mm(ビデオではありません)が十数本残っている。光を透過して映し出されるノスタルジックな色合いやリールが回るカタカタいう音、録音できない無声のものなんかもあって、それだけでも雰囲気があってなかなか楽しい。
ビデオを撮るというのは、定点に据えておくのでなければ、テープが回っている間ずっとカメラを構え、対象を見ている。画面の中のできごとは奇想天外、何が起こるかわからないから面白くもあり、そんな決定的瞬間を逃したくないという欲が出るともう大変。回しつづけるしかない。写真のようにセルフタイマーで自分も参加することはできないし、台本があるわけじゃないから、構図を考えてもキャストは意図した通りに動いてはくれない。カメラマンは常に画面の構成が頭にあって、登場人物とはちょっと離れた場所に身を置いて、専念していることになる。場合によってはちょっと孤独、、、 かも。
友人に頼まれて、ビデオの撮影と編集をした。学生のときも友人の誕生日とか、結婚のお祝いにメッセージビデオをまとめて、贈ったことが幾度かある。こっそり(とはなかなかいかないのだが)メッセージを録り集めて、音楽に載せて切り貼りしたものに、オープニングやエンディングをつけて、ジャケットもつくる。もらってから数回見たらしまわれて、その後は荷物の奥へ奥へと追いやられていくんだろうとは思うけど、ギフトや手紙ともまた違った感動があっていい。今回のものは、彼が熱意をもって関わっている町のお祭りの様子。
といっても素人だから、まず撮影がうまくない。写真と同じで、シャッターを切っているときはすばらしいのが撮れたと思っているのに、いざプリントしてみるとフツーだったりする、あんな感じ。画面がやたら揺れていたり、どこを撮っているのか焦点が定まっていなかったり、肝心な場面を逃していたり。家族の方が見たら喜ぶところは、友人が残しておいてほしいのは、お祭りの雰囲気が伝わる特徴的な素材は、、、 考えるときりがない。だけど楽しいのも確か。
そうして持ち帰ったビデオを編集。つまらない映像を長く見せるわけにはいかないから、適当な目標時間を定める。どこに注目するか決める。ストーリーを考える。音楽を探す、、、 気がつくと明け方。さすがに徹夜はしないものの、夜更かしを一週間くらいするとオリジナルのDVD Movieができあがる。そして主役の許へ配給。”いい仕事”にはほど遠い、いかに”らしく”見せるかが落としどころのオトナ(?)の遊び。

ホタルのひかり

南から湿った風が吹いている。台風が迫ると、南向きの谷間に位置するこの場所で吹き荒れる風雨は、なかなかのもの。ふと足元に目をやると、地面をメスのクワガタムシが這っていた。昨夏、網戸にメスのカブトムシが勢いよくぶつかってきて驚いたのを思い出した。梅雨入りするかどうかという昨日のこと。夏はもう目前。
今は昆虫をモチーフにしたキャラクターが人気のせいか、近所の子どもたちの虫取り熱は目を見張るものがある。クワガタムシやカブトムシを捕まえて楽しむことはずいぶんしていない。でも学生の頃、ホタルを求めて夜な夜な出歩いたことがある。初めてホンモノのホタルを目にしたのは、中学三年のとき。那須に泊まりがけで出かけた際、暗くなってから田んぼが広がる農道へ出てみると、そこかしこにホタルがヒカリの軌跡を描いていた。それはまさに、幻想的。
ホタルは絶滅に瀕しているような話ばかり聞いて、実際身近にいなかったから、そんな簡単に見られるものと思っていなかった。先輩がホタルを研究するのに繁殖させていた(これがけっこうすごいことなのです)こともあって、希少な存在だという認識はますます確かなものになる。感覚としては天然記念物レベル。それが田畑の広がる土地に出かけると、思いのほか気軽に見られることが新鮮だった。
それでも時期や天候によって、贅沢にも乱舞する姿を見たいと思うとちょっと難しい。その年は3、4日つづけて、昨日はあっちの町へ行ってみたから、今日はこっちへ行ってみようと、熱かった。どこへ行っても数匹は見られたが、結局乱舞する様を見ることができたのは、友人の家の裏。そこは毎年すごいと聞いていたから最後の砦と、締めくくりに訪ねた。そして裏切らなかった。その頃ペットボトルのお茶におまけでついていた、緑色のペンダントライトを照らすと、それに誘われるように近寄ってくるホタルの様子がまた、愛らしかったり。
うちにある小さな池も、うまいことすればホタルに棲んでもらえるかもしれないなぁ 暗くなったらこっそり楽しむのも、また一興。

感動のための感動

流しで手を洗い、ついでに顔を流してタオルで拭う。ちらりと空を仰いだら、窓越しに見えた青空がひどくきれいだった。この映像、写真に撮って残しておきたい。そんな気持ちが脳裏をよぎる。
この感動を記録しておくことは、そんな難しいことじゃないかもしれない。写真に撮る、日記に書き留める、忘れずに記憶しておく。その写真を見たとき、日記を読み返したとき、ふと思い出したとき、その感動がじわじわとよみがえってくる。
でもそれは自分のことだから。自分の味わった感動だから、思い出すことができる。でもこれを人に伝えることは、ちょっと難しい。手を洗って空を見る。そんなことはよくしていること。改めて同じ動作をしてみても、感動はない。その瞬間の気持ちの状態、空気の感じ、光の具合、いろんなことが重なってできた、またとない状況が生んだ感動。全く同じ感動を共有するのは不可能に近い。
だから表現するって難しいように思う。すばらしい映像をとらえた写真は、すばらしい映像に立ち会った写真家の感動を再現できるような、感動を与える映像でないとならない。心震えるメッセージを伝える歌は、どきどきするようなメロディーにのっていないと響いてこない。物語を十分に味わってもらうためには、適切な言葉を選ばないといけない。感動を伝えるためには、感動するような表現になっていないといけない。そうでないと、記録にしかならないかもしれない。
人は様々な場面でつながっている。独りでいるような気がしていても、必ず誰かに支えられ、助けられている。そして、助けになっている。つながりを求めることは恥ずかしいことじゃない。共有したいという気持ち、素直になるほどだんだん強くなってくる。そしたらみんなしたくなる。表現すること。相手がいると、気持ちがあると、決して難しいことじゃない。感動を伝えるために、感動的な表現が増えていく。世の中、華やかになる。

社会の歯車

『会社への忠誠心、日本が世界最低 「非常にある」9%』 ※ asahi.comより
日本人は勤勉で働き者、なんて思っていたけど、意外とそうでもなかったらしい。働きアリも7割はさぼっているというから、自分も含めて人間だってみんながみんな一生懸命とは思わないけど、4人に1人が仕事に熱意を感じてないなんて聞くと、ちょっとさみしく思う。
仕事のために生きてるわけじゃなくても、どうしたって一日の大半は仕事に費やしている。その時間を無為に過ごさないようにするには、目的意識をもっていないといけない。それはどんな仕事にだって共通。達成感があってこそ、充実した日々が送れる。
ニューヨークを訪ねていたときに気づいたことのひとつに、仕事や職場の愚痴を聞かなかったというのがある。お酒を飲みにいったり、旧知の友人で集まったりすると、どうしても職場の不満を聞かせあったりしてしまうもの。それが、あちらで会った人たちの間ではまったくなかった。環境は違えども、それぞれに楽しんでいるように見えた。
調査会社(米)曰く”「米国は不満があれば転職する。日本は長期雇用の傾向が強いこともあって、相当我慢しているのではないか」と分析している”んだそうだ。Nテレビの看板アナウンサーがフリーになるなんて発表もあった。一旦雇用されたら勤めあげる。そんなスタイルがすり込まれているから、社会に出る前に何がしたいかはっきりさせたいと長く大学に籍を置いたり、引きこもりがちになってしまったりということもあるかもしれない。思い立ったときにいつでも環境に変化を加えられる、そんなフレキシブルな社会になったら、きっと面白い。

瓶入り牛乳

うちの牛乳は瓶に入って届く。他にもオレンジジュースやマヨネーズも瓶に入っている。積極的に選んでいるわけではなく、選択肢がないだけ。牛乳パックも、油を捨てるときやちょっとまな板代わりになんてときに重宝するから、たまにはあっていいかなと思うときがあるくらい。
思い返してみれば、中学から高校まで、牛乳は瓶に入っていたように思う。牛乳瓶の入ったケースを運ぶのは、重たくて嫌な仕事だった。あの分厚いガラスの牛乳瓶に牛乳が一杯(180ml)に入って、それが30本。重いわけだ。そしてあのつまみにくいふた。誰もが使いにくいと思いながら、これだけ改善されずにあるものもなかなかないんじゃなかろうか。ふたを刺してはずす千枚通しのような道具じゃ、ちょっと情けない。
そんな瓶もずいぶん改良されてきている様子。うちに届く牛乳瓶は切れの悪さが玉にきずだけど、軽くて丈夫ということで、なんとグッドデザイン賞。ビール瓶も、K社のものは軽くなった。ケースでもち比べてみると一目(?)瞭然。こうすることで、ネックとなっている流通の部分を克服しようとしている。
瓶に入った牛乳を見ると、ほとんどの人がおいしそう、と言う。確かにおいしい牛乳だけど、見た目もおいしそう。清潔感があったりていねいな感じがしたり、瓶の印象ってとてもいい。銭湯に入ったら、やっぱり瓶入り牛乳をぐいっとやりたい。おいしいものにはわけがある。ひと手間かけると、いろいろおいしい。

迷惑がかかるだけじゃなかった

この話にはつづきがある。
滑りたくてしょうがない少年は、いっこうに降りる気配がない。母は当然、語気を強める。
「死んじゃったらどうするの。みんなが困るからやめなさい」
すると子どもが答える。
「死んじゃってもいいもん」
どきっとする。口先だけのことだとはわかっていても、子どもの口から「死」なんて恐ろしい言葉が容易く出てくることに驚き、親子の会話の中でこの言葉があまりにも平然と交わされることが、異様に思えた。
初めて死んだ人に接したのは小学校一年のときだった。夜中に叩き起こされ、眠い目をこすりながら遠くの町まで出かけた。病院のベッドで横になっていたのは祖父。しばらく前から病気で入院していたのは知っていた。しかし人が死ぬということが、まったくわかっていなかった。目の前で息を引き取った祖父と、嘆き悲しむ親族たち。ただただ恐ろしかった。
生気を失ってしまった祖父の体に触ることはできなかった。触ったら、よくわからない「死」というものが乗り移ってきてしまうのではないかと、緊張した。その悲しい記憶が、今でもはっきり残っている。だから「死ぬ」なんて、そう簡単には口にできない。
もう半月ほどしたら、あまりにも早くに命を落とした後輩の命日がくる。人の死がもたらす悲しみは、”みんなが困るから”なんて生易しいものではない。わんぱくでいい。たくましく、生きてほしい。

迷惑がかかるから?

親が子どもを注意していた。コンクリートの擁壁にあがるための階段。その階段の脇は、滑るのにちょうどよさそうな坂になっている。子どもはそこに腰かけて、滑るタイミングをはかっている様子。でもちょっとはずれると2階ほどの高さからアスファルトの道へ、、、 ちょっとこわい。
「やっていいことと悪いことがあるでしょ。やめなさい」
下に落ちたら大惨事。親は心配でしょうがない。しかし子どもはおかまいなし。今にも滑り出しそう。親はまた声をかける。
「落ちたらどうするの。けがしたらみんなに迷惑かかるでしょ」
おや?
子どもって言葉を結構シビアに受け止めているように思う。だから注意するのに「人の迷惑になるから」なんて回りくどい言い方じゃ、真意は伝わらないんじゃないか。我が子を愛する気持ちから、危険なことをやめさせたいと思って注意する。その気持ちを伝えられたらいい。君を愛しているから、傷ついたら悲しくなるから、やめてほしいと。うんちくが好きな大人と違って、ストレートな方がきっとわかりやすい。

ごめんごめんと思いつつ

桜も散って、タケノコも既に「子」じゃなくなって、庭に草がぐんぐん生えてきた。のびたタケノコって、ひどく不気味。毛むくじゃらのあのまんまの姿で、見るたびに背が伸びている。
Glashausはガラス張りだから、日中の日差しを申し分なく浴びられる。すると暖かいを通り越して、すでに夏を思わせる鋭さ。花粉のことばかり騒がれていたけど、紫外線、危険信号。
これから大挙して襲ってくるのが、昆虫たち。日が落ちてからガラスに張り付く蛾なんてのは序の口で、壁から天井から、黒い帯となって家を横断していくアリの行列。そこら中に空いている隙間から忍び込んで明かりと戯れる羽アリ。開いた窓から飛び込んできては閉じたガラスの壁に向かって飛びつづけるクマバチやスズメバチ! そして庭のあちらこちらで巣をつくりはじめるアシナガバチ。トカゲやヘビも加わって、ずいぶんにぎやか。
昨年、家を見に来たおじさまがハチに刺された。よく刺されるんです、なんて悠長なことを言ってはいたが、相当腫れていた。ここに立ち寄った後にも予定があったはずで、大変だったろうと思う。巣に気づいていれば、近寄らない限り襲われることはまずない。ただ、知らないとこんなことになってしまう。驚かせてしまったんだから、こちらも悪いかもしれない。でも代償としては、ちょっとしんどい。
一所懸命巣をつくっている姿を見ていると、その真面目さに敬服する。ちょっと頭がよいばかりにすぐ楽できてしまうヒトとはずいぶん違う。でもあまり近所に住んでもらうと困るんだよなぁと、その度に巣ごと駆除。申し訳ないのです、ホントに。もし「蜘蛛の糸」のような状況があったら、きっと逆に地獄行き。あぁぁぁ、、、 頼みますので、一軒分くらいあけてください。