お知らせ」カテゴリーアーカイブ

レックス

”レックス”といっても、かつての映画のことではない。恐竜博のために来日しているという、”スー”のこと。
恐竜博の報道にある”スー”の写真を見て、ちょっとどきどきした。写真に写っているのは、組み立てられた恐竜の全身の化石(の複製)。この巨体が、今の自分のように地上に足をついて、走り回っていたんだ。その量感、息吹き、視線、、、 ふと想像してみた。それって、すごいことなんじゃないか。
今の説では、家族があり、けがをしたときには助け合っていたんだとか。”スー”の最期も、子どもたちを襲ってきたティラノサウルス(共食い!)から子どもたちを守ろうとして、命を落としたといわれてる。大きな図体の割に、脳は握りこぶしくらい。あまり賢くなかったのでは、というイメージをもっていたけど、大違い。何トンもある体で大地を揺るがしつつ疾風のごとく駆け、獲物を捕らえていたらしいティラノサウルス。豪傑でありながら、情にもあつい。
恐竜の化石を見るなんて、小学生以来なかったかもしれない。わかっているようで実はあまりよく知らない、そんなもののひとつ。人って結構正直で、ものの大きさや重量感、存在のリアルさって実物と向き合わないと、伝わってこない。情報ばかりで実体がないと、変に原始的なイメージを引きずってしまう。縄文人と現代人で何が違うって、きっとちょっとばかしうんちくが上手になったくらいなんだ。てな感じで、恐竜だって、もしかしたら哲学をもっていたんじゃないかと思ったりする。
たまにはこういうの、見てみるのも面白そう。

足跡めいっぱい

久しぶりに、靴に油をすり込んだ。しばらく手に取っていなかったから、よくしみ込む。靴の革には哺乳動物の油。木には木の油。人には人の油!? 買ったばかりの頃は、結構頻繁に手入れしてたっけ。使い込んでいくうちに、なじんでくるとともに手入れがおろそかになるのは常のこと。身近なものほど,特別に扱うのは難しい。
この靴で、ずいぶんたくさんの地面を踏んだ。初めて足を入れたのは、十数年前。あちらこちら行動範囲が広がっていったのもその頃からだから、散歩遍歴のほとんどの場面に立ち会ってきたことになる。上着は脱げても、下着は取り替えても、靴はいつも足下に。海のずーっと向こうの土地で、朝起きたら荷物がなかったときも、靴があっただけでホッとしたのを覚えている。移動できるというだけで、安心できる。
実は一昨年の旅先で、そろそろ靴を買い替えようかと思った。10年履いた、この靴の生まれた国。記憶に残る、いい機会かもしれない。新しい出会いがあったら手にとってみよう、と思っていた。出かける前に入れた中敷きがだめになって、旅先で新しいものを買い求めたほど歩いていたけど、結局この靴で帰ってきた。まだオレ(わたし?)が面倒見てやる、ということか。
正確に言うと、靴底を2度張り替えているから、以前と同じ足跡は踏んでいない。もっと言うと、一歩ずつすり減って、足跡はいつも新品。でも心臓の鼓動のように、歩きつづけたいと、いつも落ち着かないこの足を包んでくれているこの靴は、変わらない。足下がしっかりしているということ。いつでもどこにでも歩いていけるということ。大きな安心感で支えてくれている。もう少し、頼ってみよう。

タケノコにょっき

仕事場のお向かいに、住宅が建ち上がった。木組みを始めてから2ヶ月。あっという間。景色が変わってしまったのは残念だけど、仕方のないこと。さぞ眺めのいい部屋ができたんだろうなぁと、想像してみる。
そこの大工さんと、ちょっと知り合いになった。業者さんは入れ替わり立ち替わり、自分の受け持ちだけを済ませて去っていくけど、大工さんは最後まで携わる。毎日顔を合わせているのだから、当然と言えば当然。あるときは、こっそり居間にあがらせてもらった。まだ家主も見たことのない景色。想像通りの、いい眺め。
そんな大工さんが、桜の時期になると何となくそわそわし始めた。どうやら大工さん仲間とのタケノコ掘りが好きな様子。うちが裏に抱える崖は、一面の竹林。以前、所有者がいなかった頃は時折掘りにきていたと言う。せっかくの出会いだったから、時期を見計らって山に入ってもらった。喜び勇んで林に分け入っていく3人。
しばらくして出てきた彼らの肩に下がっていた袋には、タケノコが山のように入っていた。思う存分掘れたその顔は、子どものようにほころんでいる。そしてこれから帰ってどう料理するのかうれしそうに教えてくれる。幸せを振りまくタケノコ林。うちにとってはもちろん、近所の子どもたちにも、地域の環境のためにも、こういった喜びのためにも、いい土地だと思う。
お向かいさんが引っ越してきたら、タケノコをお裾分けしてあげよう。これから長い付き合いになる。

夢の話

友人が夢の話を書いていた。ちょっと恐い、体調の悪いときに見るような重苦しい夢。聞いてみるとちょっとそれ、見たことあるかもしれない。共通の夢を見るってそれだけでもちょっと恐いのに、忘れた頃にまた現れる、その夢を見ると不吉なことが起こるとか。まいったな。
そしたらなんと、指を切った。なんてことはない、ナイフを手にちょいちょい削りものをしていたら、力んだ勢いでトンッと指をついてしまった。それだけ。しばらくして大粒の血が、、、 夢を見ていなくても、話題にしただけで不幸に襲われるなんて、ほんとに不吉。
前にもこんなけがをしたのを思い出した。そういえばそのときも雨だったっけ。そういえば春だったかも。春になったのに肌寒い、そんなどんより雨の日に、一人で削りもの。同じナイフで、同じようなシチュエーションで。夢というより季節のせい?
体がほぐれる春になるのはうれしいけど、そわそわ落ち着かない雰囲気がちょっと苦手。体と一緒に気持ちまで緩んでしまいそう。春休みは長くとるべきかもしれないなんて、密かに思ったり。夢におびえるより、気を引き締めるべし。ラジオ体操でも始めようかなぁ と、早起きしている夢を見る。

モチヅキさ〜ん

ここ数日、訪問客が絶えない。一度にあまりたくさんの話をもち込まれても処理しきれなくて困るんだよねぇ とうれしい悲鳴でも聞かれそうなものだが、仕事とは全く関係のない、珍客たち。春休みで時間をもてあましているのかどうだか、近所の子どもたちが入れ替わり立ち替わり、呼びにくる。「モチヅキさ〜ん」。
仕事場の向かいの地区には、それはもう次から次へと、申し合わせたかのように順番に家が建っていく。そして移り住んでくるファミリーは、少子化時代どこ吹く風。高齢者ばかりで静かだった住宅地が、にわかににぎやかになってきた。
はじめは裏山のてっぺんまで探検に出かけた。錆びた有刺鉄線の柵をくぐる。転がり落ちそうなコンクリートの崖を見下ろす。枯れて倒れていた大きな竹を引きずり出す。壊れかけの祠をのぞき、竹と雑木に覆われた小道の、香ばしい匂いのする落ち葉の上を歩いた。それからはもう、すっかり子どもたちのペース。以前は庭をかけずり回り、おそるおそる仕事場をのぞいているくらいだったのに、今では仕事の最中でも食事をしてても家に、仕事場に呼びにくる。
お向かいのSくんは昆虫が大好き。まだシーズンじゃないから、最近は”ハザイ”で虫をつくっている。発泡スチロールのトレーにストローで足をつけて、牛乳パックの羽をつける。大小様々なクワガタがそろった。その隣のNちゃんも負けずに虫づくり。Sくんとはまた違って、ひとつひとつ改造を加えて、つくりこんでいく。数件離れたところに住んでいるMちゃんは、仕事に興味津々。暗くなってお母さんが呼びにきても、なかなか帰らない。仕事の手が離せなくて「あとで」と断ると、Rくんは仕事場の周りをぐるぐる回っては窓をコツコツ叩いていく。仕事にどう区切りをつけるか、こちらはもう四苦八苦。こうなると遊ぶ時間を考慮して工程を組まなくてはいけない。うれしいような、困ったような。
5日には小学校の入学式。12日には幼稚園の入園式があるらしい。そしたらまた静かな午前がやってくる。子どもたちが相手にしてくれるのも今のうちだけかもしれない。なかなかいない”遊べる”近所のお兄さん(おじさん?)。もうしばらくは楽しませてもらおう。

感謝しつつ

ストーブに薪をくべながら思った。一年前の今ごろは、ここには何もなかったっけ。時が過ぎ行くのは早いというけれど、思い返してみると、ひとつひとつのことが意外と遠くの出来ごとだったように思える。忙しくて振り返ってこなかったからか、はたまたのんびりしてきたからぼんやりしてるだけなのか。
まだ暑い季節に、冬になったら仕事場に薪ストーブを入れようかと思っているなんて話をしていた。仕事で出た端材をストーブにくべて暖をとる。何とものどかな絵が思い浮かぶ。しかしそのときは、薪になる端材が出なかったりして、なんて冗談を言っていた。仕事がなければ、端材も出ない。冗談にしては、なかなかシビアな話だった。
多くの人に支えられて一年。薪ストーブに火が入れられた。そろそろ暖かくなってきたら、ストーブはしまうことになる。一年前庭に植えた小さな梅の木が花びらを散らしている。次の冬もまた、このストーブで暖まりたい。

してやられたり

家を出て駅に向かう途中、クリーム色のカーディガンに巻きスカート、黒革のブーツに眼鏡の人とすれ違った。その日は朝から天気がよくて春の陽気を予感させていたから、みんな外へ出かけたくなるんだろうな、と思いながらすれ違う。と、そのとき一瞬目をやったその横顔に驚いた。不自然に厚塗りな化粧のその主は、明らかにオトコ。女装がいけないとは思わないけど、あまりの不自然さにゾッとしてしまった。しばらく歩いてから妙に気になってちらりと振り返ってみる。するとあちらもさりげなくちらり。しまった・・・
なんだか調子が狂ったまま電車に乗り込む。寮に入っていたとき、紙に様々ないたずらを書いて、少し離れた場所からそこにコインを投げて当たったものをしなければならないという、何とも理不尽なゲームをしていたのを思い出した。今朝の彼(または彼女)ももしかしたら何かしら罰ゲームでしょうがなく・・・なんてことはなさそうだった。
乗り換えるため電車を降りる。ホームの雑踏の中を歩いていると、「ジョシコーセーサーン」と奇妙なつぶやき声。思わず振り返ると、後ろを歩いていた4、5人の女子高校生のまわりをうろうろしながら、男性がぶつぶつ言っている。「女子高生さーん」。女子高校生たちは目配せしあって、足早に人ごみに紛れていった。男性はふらりふらり、離れていく。何がしたいのかわからない。ただただ異様。女子高生家業も楽じゃないんだな。春になると、いろんなところが緩んでくるのかもしれない。気をつけなくちゃ!?
今日はどうかしちゃってると思いながら目的地へ。よくいくところなのに、ちょっと遠くまできたような軽い疲労感。リフレッシュしなくては、というのにこんなときに限って休業。なんてこった、とため息ひとつ。今日は何だかしてやられたり。

せいかつくん

「セイカツクン、どうしたの」家をのぞいたら、声をかけられた。セイカツクンて何だろうと、一瞬考える。ああそうか、自分のことだ。突然初めての呼び方をされたから、わからなかった。
あだ名っていろんなところからつけられる。得意なこととか、癖とか、印象深いエピソードとか。呼ばれ方で、その人となりが想像できるようで面白い。自分について思い返してみると、名前に関わるあだ名ばかりだと思う。生活する場が移ろう中であだ名は変わっても、名前からとられたものがほとんど。
”セイカツクン=生活くん”なんて呼び方は、結構しゃれている。いわれは些細なことでどうってことないものの、生活があってこそ仕事や社会が成り立っていると思うと、その音からはそこのところをちゃんと押さえているような印象で、光栄だ。
料理をして、食事が楽しめるから食卓の彩りを思い描ける。生活空間を整えて、きれいに暮らしたいから調度品に思いが込められる。生活を大切にできると、毎日が楽しい。豊かな暮らしって、特別なことをしないとなれないんじゃなくて、たわいもないようなことをていねいにしてみることで、かなえられたりする。そんな”せいかつくん”になれたらうれしい。

ボタンひとつ

「電話の絵とモンジのとふたつあるけど、これ押しとけばいいの? 電源と書いてあるとこ押したらあかんやろ? これどうしとけばいいの? せやから、、、」町中に聞こえるんじゃないかと思えるくらいの大声で、おじさんが一人がなっている。相手は携帯電話。用件はとっくに済んでいるようなのに、そんなやり取りがずっとつづいている。あまりにもおかしくて、こっそり見つづけてしまった。
先頃T社から発売された通話機能しかない携帯電話が、しばらくよく売れたという。極端と思えるほど機能を絞り込んだその電話機の登場を、待ち望んでいた人が意外と多かったということ。機能は減らさずに操作が簡単にできるよう工夫するD社ともまた違った、意欲的な提案だと思う。
使いやすいかたちにするって難しい。ひとつのものを手にしたとき、それをどのように使うかは人それぞれ。場所も、時間も、年齢も、性別も、癖もみんな違う。間違えないようにするためには、単純にするしかない。ひとつの機能にスイッチひとつ。何のためのスイッチか、入っているか切れているか、一目瞭然だったら迷わない。
そうはいってもこのご時世、ボタンひとつで地球が吹っ飛ぶようなスイッチなんてのもある様子。簡単にすればいいとは、一概にはいえないらしい。

わがままには、テレビは似合わない

わがままになると、テレビは見られなくなる。起きたい時刻に起きて、食べたいものを食べて、やりたいように仕事して、眠くなったら寝る。他人の都合に合わせる生活をしない人には、一方的に時間と場所を指定するテレビはそぐわない。その点、新聞や情報誌は読みたいときに読みたい箇所をかいつまんで読めるという、わがままな人向けの媒体。テレビはどちらかというと、提供する側のわがまま主体。
というと本当にわがままなように聞こえるが、そうでもない。起きたい時刻に起きるということは、その日やらなければならないことがあるから。食べたいものを食べるためには、自分で用意しなければならない。自分のペースで仕事できるように、工程を管理する必要がある。なすべきことを消化できたからこそ、安心して眠たくなり、寝られる。結構シビアな生活だ。
先日、サッカーのワールドカップ最終予選の第一戦、日本対北朝鮮の試合が少し気になった。スポーツは活字で読むより、見た方が面白い。しかしテレビがない。今や携帯電話にもテレビがついているというのに。しかしブロードバンドがある。どこかしら動画配信していないものかと探してみたものの、見つけることができなかった。残念。
「インターネットはオンデマンド(任意のタイミングで見られる)、インタラクティブ(双方向性)、ニッチ(少数の希望にも対応する)の3点が強み。テレビやラジオと融合すれば、たとえばトーク番組の放送終了後もネット中継できる。それで視聴したいという人はいるはず」と語るL社のH氏。いるいる、ここに。地上波テレビのデジタル放送がはじまったって、テレビがなければ関係ない。

先日皇太子が紹介したという詩が掲載されている本が、売り切れで増刷を決めたという。法律上の義務と権利、社会制度、人間関係などを中学生にわかりやすく解説した教科書とのこと。いいところついてる、なかなか。いつか、人間宣言ならぬ日本国民宣言してくれることを、期待してます。