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三日坊主

一週間も木曜くらいになると、ペースダウンしてくる。仕事の内容や作業の進み具合(場合によっては天気でも!?)で工程をイメージしているから、カレンダーを見ないでいることもしばしば。突然の祝祭日には、近所のほんわかムードで気づいたり。それでも仕事の相手は社会だから、何となく日曜めがけて休みを取る。したがって月曜スタート。すると三日くらいして、疲れを感じてくる。
学生の頃は、課題に追われて夜まで残っていることもあった。あまり遅くなると、いい加減警備のおじさんに追い出される。真剣に危機を感じたときには、休日の学校に忍び込んで作業したり。熱心だったもんだなぁ なんて思ったら間違い。夜遅くまで作業ができるのも、休みの日まで出かけなければならなかったのも、普段集中して取りかかっていないから。考えてみたら、朝から真剣に取り組んでいたら、夜までもたない。若ければこそ、ってだけじゃ説明しにくい。しかしながらそんな気楽な生活も、楽しかった。
調子よく日記をつづってみるも、先週なんて見事な三日坊主。明日からはちょっとがんばらないと、大変だぁ

図工の時間

夕方、近所の子どもが訪ねてきた。竹が欲しいと言う。何に使うのかたずねてみると、水鉄砲にするんだとか。どうやら幼稚園でつくったことがあるらしい。水遊びするにはまだ早いかなと思いながら、水鉄砲にするなら青竹の方がいいかもしれないと考え、連れ立って林に入り、先日切り倒したばかりの竹から必要な量を切り出した。
最近見た映画に、『トントンギコギコ図工の時間』http://www.tontongikogiko.com/というものがある。まさに小学校の図工の時間をのぞかせてもらっている、ドキュメンタリー。現代の子どもは体がよく動かないとか、道具がうまく使えないとか、独創性に乏しいなど、ネガティブなイメージをもたれている節があるように見受けられるが、創作と精一杯向き合っている子どもたちの活発な姿には、そんな暗さは微塵も感じられない。
奔放な創造力、制作にかける熱意、巧みな道具さばき。フツーな大人は舌を巻く。自分もこんなにできたっけ? 創作と製作を生業とする身にとって、戦々恐々な世界。
子どもの無限大のエネルギーは可能性に満ちている。我が子はもしかすると天才かもしれない、とは結構たくさんの親が思っているらしいこと。でもそれって意外と本当かもしれない。ただ天才が天才でいることが許されない何かがある。それはちょっとやそっとじゃ得体が知れないから恐ろしい。教育のもつ力、もっとちゃんと認識した方がいい。
青竹の節にあける穴、上手にあけられるかなぁ

チョコレートの誘惑

ここ数日はとにかくにぎやかだった。コンビニに行けばバレンタイン。ラジオをつけてもバレンタイン。節分の太巻きは一気に駆け抜けていったような気がするが、ことバレンタインとなると、正月のお屠蘇が醒めるかどうかという頃からじりじりと迫ってきたような印象。
この日が近づいてくると街がピンク色に見えてきて、なんだかそわそわした空気がみなぎるように感じる。その子が、あの子が、みんな後ろ手に指を絡めうつむき加減で頬を赤らめている、そんな少女漫画のような絵になって見えてくる。どうも気恥ずかしい。
しかしこのイベント、もしかしてもしかするとチョコレートがもらえるかもしれない。そう思うと、ちょっと期待したくなったりもする。口元がゆるんでしまいそうで甘いものはあまり得意ではないのに、チョコレートだけは別。ちょっと苦みの利いた”大人味”のチョコレートのことを考えると、それこそよだれが出そうになる。
世間はどうあれ、そうそうおいしい話は転がり込んでこない。今晩楽しんでいるのはごくフツーの一口チョコ。巷で流行っているらしい超高級ショコラとは無縁の、ささやかな味わい。これで結構、至福なひととき。

なかなかないもの

模様替えをしたり引っ越したりすると、もっているものの多さに驚かされる。よく使うものもあれば何年間もしまいっぱなしのものもあるし、気に入っているものもあれば、なぜ手元においているのかよくわからないものも少なくない。そのたび自分にとって余計なものはできるだけもたないようにしようと反省するものの、そう容易く改善されるものでもないらしい。
気に入ったものを手にしたい。誰もが思っていそうなことだが、感性は十人十色、気の利いたものとはなかなか出会えない。そのひとつがちりとり。
今仕事場で使っているちりとりは、近所で買い求めたもの。必要だったから、ちりとりには申し訳ないがしょうがなく選んでしまった。しかしこれが使ってみるとなかなか悪くない。金属のボディにゴムのベロがついていて、細かいちりまできれいに受け取ってくれる。ちょっと感心した。そうはいっても、愛嬌のなさは相変わらず。
使い勝手と端正なたたずまい。なぜかなかなか納得させてくれないこの関係が、暮らしのちょっとした楽しみになったりする。

小さな木かげ

朝刊を読んで、ずいぶん笑った。うんざりしてしまう、荒廃した社会を伝える記事ばかり目につく昨今。なかなか愛嬌がある。
記事は、小学生に漢字の読み書きがどれだけ身についているか調査したという、その結果。1万5千人の子どもが対象になったそうだ。テストは誰しも嫌いなものだと思うが、余計にテストをすることになった子どもたちが少し気の毒にも思う。
そんな苦労の末に楽しませてもらった”珍”回答というのが、いくつか例示されている。それらが意外と的を得ていて、真っ向から否定できないと思えた。その回答と、感想をひとこと。
【読み】
食が細る→食がコマる 結構困ったことだったりする。
塩を足す→塩をオトす 卵をおとす、とかいうよね。
赤十字→アカじゅうじ 緑十字はミドリって読ませるよなぁ
試みる→タメシテみる 言い回しとしてはこの方が凝っているような。
肥をやる→ヒをやる 肥なんて、見たことも聞いたこともないでしょう、きっと。ぼくだってそうお目にかからない。常日頃から”肥”満が気になります。
【書き】
農家→農科 大規模な経営や野菜工場化が進んでいる状況だと、この方がしっくりくるかも。専業の人も少ないし、肩書きにもなりにくい。
遠足→園足 公園やら動物園やら、園に行くね、確かに。
さるかに合戦→さるかに勝戦 勝ちしかないってのが何とも豪気でたくましい。負けそうなときはリセットなんて奥の手がある。そして現代の戦争は、敵味方が死力を尽くして戦う”合戦”のように誠実じゃない。
家路を急ぐ→家事を急ぐ 孤食に分刻みの生活。急がなきゃならないのは家路より家事ですかね。遅れそうなときはメールで先手。
落書き→楽書き 楽しいよねぇ
人に仕える→人に使える 要はパシリということでしょうか。使(仕)える人より使える人になりたいものです。
すずしい木かげ→すずしい小かげ 身近にある木かげはみんな小さいよね。あんまり涼しくないかも。
田園地帯→電園地帯 秋葉原のことでしょうか。田園地帯が身近に少ないんだから、知らなくてもしょうがない!?
積乱雲→積乱運 人生波乱万丈。楽はできません。
他にも米作農家をコメ作農家と読んでしまうんだとか。でも、オトナでも結構いるんじゃないかと思う。オトナを対象にした調査がないのをいいことに、結構無責任かもしれない。あまり聞くことのない言い回しだとか、実感のもてない情景だとか、そういうところで身に付きにくいことがあるように思う。
15年前にも同じような調査をしているそうで、結局読み書きの力は落ちていないという。パソコンとかコミックの弊害が騒がれそうだけど、学力向上を焦ると、ふたたび詰め込み教育を助長することになりかねない。楽しく学んで欲しいと願うばかり。
と、面白おかしく読ませてもらった。しかし同じ朝刊で報道されている、非道な行為を明らかにする記事が一面に掲載されていなかったことが腑に落ちない。まだ知られていないことがあるかもしれない。ハンセン病患者に強いられてきた信じ難い行為の数々に、背筋が寒くなる。結局、笑いだけじゃ終われなかった。

女郎蜘蛛

今朝起きてみると、食卓の上にクモがいた。この家には網を張るものや這い回るものなど、種類も様々、大きさもいろいろなクモがいる。これは網を張ってえさが引っかかるのをひたすら待っている、黄色と黒の派手なやつ。
地面や柱を這っているクモは、仕事場の床を掃いていると、脱け殻が落ちている。みんなとてもきれいに脱ぎ落としているから不思議だ。本などをひょいと取り上げると、その裏に張り付いていたりするから時どき驚く。何も悪さをしないのはわかっていても、その容姿はちょっと物々しい。
網を張るクモは、窓の外側だけでは飽き足らないのか、一晩たつと室内の天井から机にかけて、大々的に展開しているときもある。普段は窓の内側からのぞきこんで、巣を張る作業を見守ってみたり、雨風が強いときにはどうしているんだろうと観察することもあるが、こうなるとさすがに巣を取り払わざるを得ない。
そんな彼らも、寒くなってめっきり見なくなった。春がくるのをどこかで待っているのだろう。そんな中、一人ぽつんと天井に巣を張り、待ちつづけていたクモが、落ちていた。それはまるで脱け殻のよう。すっかりしぼんでいる。
寒い冬は、まだもう少しつづく。

京急

「ケイキュー忘れないでね」
母親が子どもに呼びかけた。ケイキューってなんだ? ぼくらがいるのは和室の畳の上。そんなものあったっけ? ケイキューといえば京急かもしれないが、ここは京急の路線とは程遠い。ちょっと困惑した。
帰り支度を終えた母親が立ちあがると、子どももそれまで遊んでいたおもちゃをつかんで駆け出した。手にしていたのは、京急。京急の車両のおもちゃだった。京急が、襖の桟を走っていた。
京急電車を模したおもちゃだからケイキュー。電車が好きなのかもしれない。同じ電車でも、山手線もあれば丸の内線もある。もしかすると系統まで知っているかも。それぞれ区別がつく子どもには、「おもちゃの電車」じゃ通用しない。
赤ちゃんや子どもが相手だと、ついつい子ども言葉(?)で話しかけてしまう。でも時には、子どもにたしなめられているかも。

おじさんのぼやき

夕方、注文していた資材が届いた。最近は代引きで配達されることも多い。振込みによる詐欺が横行する中代引きは安心だが、手許に現金を用意しておかないといけないのがわずらわしい。クレジットカードだ電子マネーだといろいろあるものの、結局キャッシュレスにはなりきれない。
今日も届けてくれたのはいつものおじさん。このおじさんがおもしろい。たまたま留守にしているときに届けてくれる間の悪さにはじまり、この荷物重いんだよね、とかいいながら自分で運ぼうとしない。荷おろしを手伝ってみると、どうもこちらのほうがたくさん運ぶことになる。代引きにしても、この間の荷物、金額間違えてて怒られちゃったといいながら、小銭を頂戴しにふたたび現れたりする。そんなおじさん。
荷物をおろし、代金を払う。さすがにもう間違いはない。車に乗り込み、帰るのかと思っていたら、運転席の窓をするする開けて、こう切り出した。
「今のままじゃ、この国はだめになる」
今日、通常国会の開会にあたり、首相の施政方針演説があった。先行きを、思う。

あれから10年

17日で、阪神淡路大震災から10年が経った。昨年は立て続けに襲ってくる台風に新潟の地震、そしてスマトラ沖を起源とする津波による被害といった自然災害が頻発したこともあり、この日を、改めて強く意識した。
大地に足をついて暮らす限り、地震による危険から逃れられない。台風に遭遇することが多い土地では、家を頑丈につくっていたり、洪水の多い土地では、すぐに建てなおせる簡便な家をもっていたりする。画一的なやり方ではなくて、その土地にふさわしい暮らし方を知ること。大地に生かされているものとして、考えていなければと思う。
10年前、仮設住宅の玄関の出入りや浴槽の出入りに不便があるというので、踏み台を500台あまり設えて、使っていただいた。そういった経験が活かされて、きっと新潟の住宅では同じような不便はないんじゃないかと想像する。助け合い、支えあって生かされていることを再認識するという話を耳にすると、辛い中でもほっとした気持ちになる。
あの踏み台たちはどうしているだろう。台を踏む足が、確かであってほしいと願う。そして、新潟で地域を元気づけようと中心になって活動している友人を思い、力になれることを考える。

ゆっくり、ゆっくり。

今年一年も、さまざまなことが起きた。うれしいことも悲しいことも、残念なことも数限りない。悔しくて社会に失望感を抱いても、やはり生きて未来を授かっていることが、幸せに思う。そして果たすべき使命があるんじゃないかと、勇気づけられる。
大晦日にはうっすらと雪が積もった。都会に住んでいると、お正月やゴールデンウィーク、お盆など年に数日、街がひっそりするのを味わえる。土地のもつ容量をはるかに超えた社会を載せる都市が静まるとき、非日常の貴重な時間を得られたような新鮮な気持ちと、郷愁に似た、でも孤独な存在感を覚える。今日は雪もあって、なおさら。
おだやかに、マイペースに。誰も無理を強いられない、希望をもって朝が迎えられて、伸びやかに空を仰ぐことができる、ゆったりとした時間が流れることを願って、年を越したい。